かくて十村の制度は久しきに亙りて行はれしが、積弊漸く甚だしからんとするものありしを以て、享和中一たび之を改めんとせしもその功を奏せず。遂に文政四年に至り斷然十村を罷め、百姓を直接郡奉行の所屬たらしめき。前に言へるが如く、改作奉行を廢して盡く郡奉行たらしめしもこの時の事にして、從來の無組御扶持人十村と御扶持人十村とは之を惣年寄と稱し、平十村は之を年寄並といひて、並びに郡奉行を輔佐せしめ、而して從來百姓は十村といへども苗字を唱ふるを許されざりしを、是に至りて惣年寄にのみ之を許し、天保六年には年寄並に及ぼせり。然るに郡奉行と百姓との間に仲介機關なきことは、徒らに御郡所の事務を繁雜ならしむるに止り、政績却りて擧らざるの憂ありしを以て、天保十年には又惣年寄・年寄並を罷めて十村の職を復し、百姓を十村支配とせり。この時以後無組御扶持人十村・御扶持人十村は苗字を許し、平十村には之を許さゞることゝし、以て藩末に及べり。 村々肝煎・組合頭に申渡す惣年寄演述之覺(抄) 今般思召被爲在、十村役被指止、御領國百姓・頭振、御奉行所直御支配被仰付、是迄之御郡御奉行・御改作御奉行都而御郡御奉行に被仰付、是迄之十村手前におゐて取捌候品々、都而御奉行所におゐて御取捌被成候。 一、御郡方御法令之御條々、御改作方御法之儀、都而古來之通彌以無違失相守可申事。 一、是迄之組々其儘に被立置、組之名唱之儀、其組等之内郷庄・廣き名等を取、御改被成候。 一、惣年寄役被仰付、農事御收納勢子方主附組被仰渡置、都而御郡人御支配方等に付御奉行所御詮議方相勤、且用水方之儀も致裁許候事。但、惣年寄役之儀、常々苗字相名乘可申旨被仰出候事。 一、年寄並被仰付、農事御收納勢子方主附被仰渡、惣年寄に准じ相勤可申事。 一、惣年寄並に年寄並共石川・河北は御根役(御郡所)所え詰番相勤、遠郡は御出役所曁御根役所にも詰番相勤申事。 一、是迄之十村手代之儀、以後某手代と申事無之、御役所附之趣に而御郡手附と名目御改、御奉行所被召仕候。勤向之儀は、御米納方・書算方・使役等に御召仕に候。尤石川・河北之儀は御根役所並堂形御役所詰番、遠郡之儀は御出役所詰番相勤候。都而身支配並役儀之筋惣年寄之裁許に而、惣年寄・年寄並手前に而も御用召仕候事。 文政四年辛巳七月 〔觸留帳〕 ○