組裁許の十村、即ち平十村及び御扶持人十村の職務に附隨する所得は鍬役米なり。鍬役米とは、組下の男子十五歳より六十歳に至る者一人に付米二升を徴收するものにして、この制は元和二年より初れりといふ。新田裁許・新田裁許列・山廻・山廻列たる者は、家長・家族共に鍬役米を出すを要せず。村肝煎は當人のみ除かれ、百姓の家に雇傭せらるゝ者も亦之を納入せず。 組裁許の十村は、毎年正月十六日御算用場に於いて、その組が前年藩に對する收納を皆濟したる理由を以て目録を下賜せらる。その法天保十年以後に在りては、領國中第一番に皆濟したる組の十村に銀五枚・紬三反、一郡中第一番に皆濟したる組の十村に銀三枚・紬二反、その他十二月までに皆濟せるものは凡べて銀三枚とす。無組御扶持人は裁許の組を有せずといへども、交番に二三人宛銀三枚を給せらる。 能登島岩屋村皆濟状羽咋郡堀松國田武雄氏藏 能登島岩屋村皆濟狀 十村は又代官を命ぜらる。代官とは、百姓の藩に對して上納する米穀を監査收入するものをいふ。萬治元年以前は十村中に代官を勤むるものと勤めざるものとありしが、この年以降一統に之を命ぜられき。十村以下代官たるべきものは改作奉行之を定め、代官割所に通牒し、代官割所より代官帳を代官に下附す。代官帳一册に記する所は收納米五百石と稱すといへども、實は正米三百三十石に當る。而して藩の法定納一石に付口米一斗一升二合を徴し、その中二升を手數料として代官に給するものなるが故に、三百三十石に對する代官の收入は六石六斗となるべき筈なりといへども、定納米一口毎に端數を去る時は代官帳一册を取扱ふ實收入は六石四斗餘となり、無組御扶持人十村・無組御扶持人十村並に代官帳五册を、御扶持人十村・御扶持人十村並は代官帳四册を、平十村及び平十村並にして裁許の組を有する者は代官帳三册を受く。文政四年十村を廢して年寄とし、郡奉行が代官の事を掌るや無口米とし、天保八年再び代官を年寄等に復するに及び口米を半減し、十年年寄を改めて十村の舊名にかへしたる後も亦之に同じ。かくて上述の如く、無組御扶持人十村は代官として最も多くの口米を所得すといへども、その職一郡を統轄するにあるが故に、屢御郡所・改作所等に出頭することを要し、隨つてその費用甚だ多きに上るのみならず、組裁許を爲さゞるが故に鍬役米を得る能はず。是が爲に收入の總額尚反りて御扶持人十村に及ばざりしかば、弘化元年以降加賀に於いては別に一人に付米二十石、能登・越中に在りては三十石を改作所別除米より支給せらるゝことゝなれり。代官にして九月晦日以前に新任せられたるものは口米の全額、十二月二十日以前のものは半額を給はり、その以後に屬するものは當年の口米を得ること能はず。代官の職務に關する規程は、收納藏に懸札として掲示せらる。