又山廻あり。山廻は寛文三年十月初めて之を置き、御郡所の任免するものなるも、その兼務たる代官は改作所の所管とす。山廻にして代々扶持を受くる者之を命ぜられたる時は、御扶持人山廻といひ、否らざるものを平山廻といふことあり。山廻老いてその職を免ぜられたる時は御扶持人山廻列・平山廻列となる。而して能美郡に山廻なく、能登に特殊の山廻ある等のことは、之を林業の條に述べたり。 新田裁許・新田裁許列・山廻・山廻列の四種は、惣稱して之を分役といへり。その名義の理由を明らかにぜずといへども、恐らくは十村の職務を分擔するの意なるべし。新田裁許と山廻とは又その兼務として代官を命ぜられ、共に代官帳二册分を取扱はしめらる。以てその收入を算出し得べし。代官が收納藏の鎖を開くとき立會ふものを封切相見人といひ、又分役の兼務する所なり。文政四年の改革には、分役に關して變更する所なかりき。これ等の外、農吏に御仕立勢子役・屎物方主付・桑楮植付勢子役・變地勢子役等あり。皆臨時の職にして、分役又は十村の子弟をして之に當らしむ。 番代は十村詰番の代理者たる義にして、その創置年代明らかならず。御扶持人十村等の銓衡によりて、各郡に一人を命じ、給銀は該郡の打銀を以て支出するものとし、その額一定せず。番代は郡奉行の支配に屬し、金澤に居住して日々御郡所中の十村詰所に出席し、自郡に關する事務傳達の任に當る。又文化六年の頃よりは諸郡番代と稱するもの一人ありて、領内各郡に交渉ある事務を掌り、その給銀は諸郡打銀より支給せられたり。番代は手代等注目の標的となるものなるが故に、特に人材を選びて之に任ぜらる。 手代は萬治・寛文の頃名代といひしものにして、十村の使役する所とし、場付手代・納手代・内手代の三種あり。場付手代は金澤に居住し、郡奉行支配たること番代に同じく、之を場付と稱するは御算用場内なる御郡所に附屬するものたるが故なり。場付手代の石川・河北二郡に屬するものは、御扶持人十村以下平十村に至るまで皆各一人を出し、某村何某手代と稱してその組の諸事を掌り、石川・河北以外の遠郡に屬するものは一郡共通に二三人を出し、某郡手代と稱し、給銀は之を郡の打銀より支出せらる。手代の任命はその郡の御扶持人十村より申請し、郡奉行・改作奉行の認可を得るものとし、番代の助手として日々十村詰所に出席す。納手代は、代官の事務に使役するものにして一兩人宛あり。十村より出願し、郡奉行・改作奉行の認可を受く。内手代は、十村等の自宅に於いて使役するものとし、石川・河北二郡に在りては場付手代を自宅にて使役する十村ありといへども、遠郡に在りては截然たる區別を有し、郡中百姓の子弟などより選定す。