藩政上下二百八十有餘年の間、農を以て經濟の大本となし、耕耘に開墾に奬勵誘掖至らざる所なかりき。されば篤農良農の輩幾千百人を以て數ふべしといへども、その社會上の地位甚だ高からざりしが故に、善行美績殆ど湮滅して傳はるものあらず。今その著しきもの一二を得て之を録す。 後藤太兵衞は石川郡押野の人にして、寛永二十年十村を命ぜらる。太兵衞心を勸農に傾け、明暦元年より私費を投じて同郡泉野の地を開拓し、萬治元年こゝに泉野新・泉野出の二村を創立せしに、藩の賞賜を得たり。寛文十一年太兵衞又藩命を受け、遠く小原村地内より犀川の上流内川の水を引きて灌漑せんことを計り、巨資を投じて遂に功を爲しゝかば、近村皆その慶に浴せり。後に長坂用水といふもの是なり。藩乃ち窮民を移してこゝに一村を作らしめ、之を長坂新村と稱す。 吉野彦助は羽咋郡杉野屋の農なり。彦助開墾の志あり、常に山野を跋渉して地の拓くべきものを求め、萬治三年尾長村の内に於いて初めて高四十石を得たり。後又尾長に隣接する邑知潟邊に飯山川筋長さ八十間餘を開鑿せんことを出願せしに、寛文三年改作奉行等その地を蹈査して、川筋の改修と共に水田を新開すべきことを命じ、名づけて堀替新村といはしめたりき。爾後十數回に亙り得る所の新田高五百八十石に及び。その他別に隣村の新聞二百石あり。時人因りて千石彦助を呼べり。元祿十四年十一月歿す。