土屋義休は通稱又三郎、石川郡御供田村の農勘四郎義正の子なり。寛文四年五月父の横死せる後を受けて十村となる。元祿中改作奉行園田左十郎罪あり。義休亦之に坐して十村の職を奪はれ、獄に繋がるゝこと一年餘に及べり。既にして赦さるゝことを得、後剃髮して直心といひしが、又その事を御算用場奉行に告げざりしを以て百日の遠慮を命ぜられき。義休頗る記性あり。北陸に於ける戰國以降の歴史に通ず。寶永二年金城隆盛私記を著し、次いで正徳四年三州大路水經を脱稿せり。後者は加越能三州の河水に就きて記すること極めて詳密なるを以て、大に藩吏の珍重する所となり、後大澤君山之を補綴して上中下三卷と爲せり。寶永四年義休又耕稼春秋七卷を著し、農事に關する細大を詳叙す。室鳩巣この書に序して曰く、直心世々農を事とするを以て、夙夜意を稼穡に留め、常に此を以て子孫に訓へ僕隸を督すること、未だ曾て一日も怠らず。乃ち播殖種藝を録する數十年間にして、之を天の時と地の宜しきに驗するものを七卷とせり。鳴呼此の人の如き者、之を今世に求むるに絶えて無くして僅かに有る者なり。豈所謂三代の遺民なる者か。五方の民をして皆直心の心を用ふるが如くならしめば、安んぞ民食足らず國家富まざるの患あらんやといへり。義休享保四年四月を以て歿す、時に年七十八。 中橋久右衞門は、河北郡淺田村の人なり。享保中羽咋郡邑知組の村吏を命ぜられ、來りて千代町村に居る。是より先邑知組の一半は、或は荒廢用ふべからざる沼澤たり或は灌漑の便を缺ける焦田なりしかば、久右衞門は改作奉行荒山三右衞門と謀り、藩に請ひて溜池開鑿の工を始め、下肝煎十三人を指揮し、羽咋の農善五郎を擢でゝ土工を董督せしめ、遂に四個の溜池を得たり。その一は菅原池にして、菅原の山間に在り。面積十六町歩。俗に周圍一里と稱せられ、池畔谿谷に出入迂回するを以て四十八谷堤ともいふ。その二は杉野屋池にして、奧堤・前堤の二あり。孰れも杉野屋に在りて、郡中四大池の中に數へらる。その三は藪野の山間なる藪野池にして、主として今の北邑知・若部・中邑知三村に注ぎ、その四は柳田の山間にある柳田池とし、柳田等の耕地に灌ぐ。而して是等の溜池によりて灌漑せらるゝ田地は、草高一萬三千九百四十石に上れり。溜池の成るや、久右衞門は善五郎を擧げて溜池肝煎と爲し、下流各村より米十石を徴してその俸に當てしめき。是より後郷民久右衞門の徳を崇び、像を彫みて菅原に祀り、毎歳五月廿五日關係三十六ヶ村は業を休みて溜池祭を行ひ、今に至るまで尚之を廢せず。大正十三年二月十一日久右衞門に贈るに從五位を以てし、その遺徳を表彰せらる。久右衞門の生歿年月は共に明らかならず。