水内六左衞門は石川郡村井村に住せる十村なり。享保中藩に請ひて同郡徳光・竹松・倉部諸村の海岸砂地を開墾せんとし、數千間の用水路を掘鑿し、十年を經て功を成すことを得、自村の民を移してこゝに居住せしむ。藩その功を録して賞を與へんとす。六左衞門乃ち請ひて、新村の在る所村井と一里餘を隔つといへども、尚名づくるに村井新を以てせんことを以てして許され、元文二年閏十二月之が村御印を得たり。六左衞門又享保三年福留の人林楚太郎と謀り、運上島等七ヶ村の荒無を開拓し、十一年竣功せり。この地もと手取川の河床たりしを以て手取川開と稱す。次いで享保七年平加より鷺森に至る海岸の砂地を開墾し、十九年に至り之を各村地内に組込めり。元文五年加賀藩領近江今津・弘川の地湖水の爲に浸害せらるゝを以て、六左衞門に命じて波除工事を爲さしめ、遂に功によりて扶持高四十五石五斗を賜ふ。明和三年九月廿八日死するとき年七十五。 國田敬武は通稱彌五郎、世々羽咋郡堀松に住し、十村の職を奉じて令名あり。敬武文政十年を以て生まれ、年少にして七尾に遊び、儒醫安田竹莊に就きて漢籍を學び、又自ら國學を研鑚して平田篤胤の風格を慕へり。敬武二十三歳の時父の職を襲ぎて土田組を裁許せしが、事に當りて明敏果決、性廉潔實直にして專ら郷民の爲に利便を謀るを喜べり。土田組の中に米町川あり、河身屈折甚だしく、頻年汎濫して害を與へ、邑民頗る疲弊せり。敬武乃ち郷民吉田彦次郎と謀り、藩の許可を得、弘化四年梨谷小山の地内二百九十五間を改修し、嘉永三年清水今江の地内三百九十二間を改修し、更に安政六年北吉田地内四百九十間を改修せり。是に於いて水利漸く通じ、土質從ひて向上し、濕田は乾田となりて收穫往日に倍蓰すといふ。敬武又徳田・高濱間の道路を改善して交通の便を謀り、或は山間の地を拓きて桑園を設くる等、その功最も多し。是に因りて嘉永三年藩は田一町歩を賞賜し、同六年又四町歩を授く。敬武明治六年四十七歳を以て歿す。