枝權兵衞は石川郡坂尻村の人、文政八年齡十七にして村肝煎となり、爾後恪勤精勵身を以て公事に盡せり。當時手取川の十八河原より分岐する富樫用水ありて、草高一萬七千石の田地に灌漑せしが、その取入口の適當ならざると設備の不完全なるが爲、汎濫早魃の困苦尠からず、損害亦隨つて大なりき。權兵衞時に井肝煎を兼ねしが大に之を憂へ、藩臣本多圖書の與力にして産物方の吏たる小山良左衞門に進言し、取入口を上流に移し、白山村安久濤ヶ淵より九重塔に至る間に隧道を鑿ち、更に鶴來古町に至る運河を開かんことを以てす。良左衞門亦鶴來・金澤間に運漕の便を開かんとするの志ありしを以て、相議して地勢を調査し、權兵衞は自ら隧道百七十間・運河四百間の工事を督せり。然るに事業の困難甚だしかりしかば、關係村民等囂然として之を非難し、土工は多額の勞銀を得んが爲に妄動し、遂に盡く私財を抛ちて尚且つ足らざるに至りしも、權兵衞は毅然として屈することなく、慶應元年二月に初めて明治二年五月に竣れり。是に於いて水禍旱害全く除かれ、流域三十九ヶ村の農民その徳を崇びて、二人の爲に生祠を設く。明治十三年二月二日權兵衞歿する時齡七十二。昭和三年十一月十日從五位を贈らる。