西川長右衞門、初の名は吉平、河北郡大場村の農吉左衞門の二子にして、文化四年八月生まる。吉平深く農事に志あり。嘉永六年六月十九日昧爽田園を巡りて稻の發育を見るに、皆穰々として穗を垂れ、豐年の兆既に明らかなるものあり。當時この地方の農家に栽培する米種を巾着と稱し、中稻種にして種子に棘あるものなりしが、吉平偶之と異なるものゝ混ずるを認め、その穗を拔き來りて檢するに、從來未だ曾て見ざる良種なりき。吉平乃ち大に喜び、培養兩三年にして益好果を得、遂に種子を隣人に頒つに至れり。是を以て世人吉平坊主と呼びしが、後大場坊主といはれ、加賀米種中最上のものとなる。長右衞門明治十一年二月歿し、大正二年十月農商務大臣の追賞を得。而して大場坊主は昭和の即位大典に、瑞穗の名を以て滋賀縣の悠紀田に播種せられたり。 鹿野源太郎は大聖寺藩に屬する江沼郡山中村の人なり。今便宜に從ひてこゝに録す。源太郎天保六年十月を以て生まれ、資性温厚着實、夙に心を興農に注ぐ。山中に近く中田・長谷田・上原田・塚田ありて、紙谷四ヶ村と稱せられしが、その地水利の便なきを以て僅かに蔬菜を産するに過ぎず、住民殆ど生計に苦しめり。大聖寺藩乃ち屢之が救濟の途を講じ、製紙の術を傳習して生業と爲さしめたるも、その製粗惡にして販路狹く、擧村貧窮の域を免るゝ能はざりき。源太郎備さに弊根の在る所を察し、安政六年四月策を藩に上り、荒廢を開拓して美田と爲さんがため水路を開鑿せんことを議せり。而も藩は容易に之を許さゞりしを以て、源太郎は事若し成らずんば一死以てその罪を償はんと極言し、哀訴歎願九年の久しきに及びたりしに、慶應三年七月藩は始めて之を容れ、郡奉行をして意を傳へしめき。源太郎命を拜して喜悦に堪へず、廳を退くや直に起工の準備に着手せりといふ。源太郎の開鑿したる水路は、之を大聖寺川の上流風谷より引き、下流中田に至る五千三百二十三間とし、山に沿ひ谷を繞り、巖を穿ち橋を架し、施工の困難なること名状すべからず。特にその水路は山中村なる水無山麓を通ぜざるべからざりしが、水無山は即ち山中温泉の源頭に當るが故に、邑民之を掘鑿せしむるを欲せず、爲に頭強に反對せり。源太郎乃ち慰撫して纔かに事なからしめ、三年を經たる後明治二年三月初めて疏水せしむるに至れり。その經費皆源太郎の自辨する所に係り、前後藩より土工一千人の補助を得たるのみ。後紙谷四ヶ村に於いて、七十三町七反歩の良田を得、山中温泉所に於いても縱横の溝渠に疏水せしめ得たるもの、一に源太郎の賜たらずんばあらず。明治三十年十月を以て歿す。