新開にして永荒等となりたる爲、見捨高とせんことを出願することあるも、容易に許可せらるゝことなし。これ地元の存在する上は、再び開墾して田畑に復するの手段決してこれなしとはすべからざればなり。但し山崩によりて斷崖に變じ、或は波浪に洗はれて海中に沈沒したる場合の如きは、改作奉行の蹈査によりて許可せらるゝことあり。 免は、他藩に於いて厘付といふものに當り、田地の草高に對して百姓の上納すべき租米の比率をいひ、前田利常の改作法施行以後その徴收に定免法を採用せり。定免法とは、一村毎に租率を定めて、毎年豐凶に拘らず定額の租米を上納せしむるものにして、作況の實際に從ひて増減する檢見法に對する名目とす。而してこの定免法に據れることは、加賀藩農政上の一特色にして、その免相(メンアヒ)を算出する方法は後に歩苅の項に述べたるが如し。免相とは免の歩合のことなるが故に、寧ろ免合と書するを正しとすべし。免の語義に就いては、河合録に『たとへば草高百石之村方、惣取揚米も百石有之處、不殘納所する筈には候へども、作方入用・百姓夫食にも入用なる譯に付、百石之米之内四十石を納る事に免許有之と申意味歟と申考有之。』と解説すれども當らず。蓋し免は元來公納の意にあらずして、百姓作徳の率を指したるものとし、領主より見て之を免と稱すること極めて適切なりしなり。然るに慶長十一年の頃に至り、免の字義は從來と全く相反し、領主の取箇(トリカ)即ち收納率を指すことゝなり、草高に免を乘じたるものを物成何石何斗と計算するに至れるなり。但し何が故にかくの如く變化せしかの理由は明らかならず。左記の文書は、免を百姓作徳の比率に用ひたる例にして、その一俵といへるは、天正十五年以前は三斗なるも十六年以降は五斗なり。 三輪彌七郎代官所 天正十六年分 嶋之内岩屋村 一、二百二十一俵八升三合五勺高 此内六十六俵一斗七升五合三免引 百五十四俵四斗八合五勺定納 出來分 五十三俵三升二合 此内廿六俵二斗六升六合五免引 廿六俵二斗六升六合出來分定納 合百八十一俵一斗七升四合五勺 此内 百七十六俵一斗二升八合彦七笠間請取之面 殘て 五俵四升六合二勺未進 さしをき候也。 以上 右皆濟如件。 天正十七年九月十三日印(利家) 〔石川縣租税史〕 ○ 七尾古屋敷方 一、二百十五俵一斗二升五合高 此内五十三俵四斗六合二勺二半免引 百六十一俵二斗一升八合八勺定納[三左衞門喜兵][藤十郎宗兵]請取之面 右皆濟所也。 天正十九七月二十六日印(利家) 〔石川縣租税史〕