改作法施行の後、風水旱虫等によりて不作となり、收穫の定納よりも甚だしく不足したる時は、作柄に應じて一作の引免を許すを法とせり。免相の減少は改作奉行の權限に屬し、御算用場奉行に示談したる後之を決す。而してその比率を定むるには、奉行出役して作損の實際を究め、定納に不足の程度を計り、一作の引免を命ずると同時に、殘免の納租を皆濟すべしとの請書を徴す。見立免切といひしもの是なり。然るに延寶三年の大飢饉より以後、又貸米の制を復舊するに至り、改作奉行は出役することなく、御扶持人十村等の内見分によりて不足を見積り、用捨免に相當する定納を貸米とせんことをその村より出願せしむることゝせり。之を見立代り御貸米といひ、場合により奉行が作損村を見分の爲出役する時は之を立毛見分といへり。爾後見立免切と見立代り御貸米と、二法相交へて時宜に善處することゝせり。 畑に在りては、旱損あるも決して見立免切を行ふことなし。隨ひて田地に見立免切を要する場合に在りても、畑の高を除きたる殘餘に對してのみ引免するを法とす。然りといへども特に畑地の多き村方にありては、貸米の額を銀子に換算して後日返上せしめしことあり。 作損御貸米等は、古くは御算用場に於いて、毎年見計らひを以て返上米を取立てしなり。然るに貸米の口數漸く増加し、且つ次第に返上高の見計らひを減じたりしを以て、後領内に對し年柄により二千石又は三千石の返上を命じ、之を貸米の口々に割當することゝせり。次いで享和二年又口々に割當することを廢し、一郡の分を打込返上せしむることゝし、文化二年より之を跡々御貸米返上と名づけ、年々増額して文化八年には六千石とし、文政七年には二萬二千五百石とせり。而してこの返上は作方に關する貸米のみに對するものなるが故に、文化十四年別に從前引免を許されたる冥加として領内に上納米三千五百石を課することゝせしが、天保十年この二口を合して跡々御貸米返上額一ヶ年二萬六千石と定めたり。但しこの返上米に對する元高の何程なりしやは計算せられず。その後貸附する作損御貸米・夫食御貸米・一作取扱米等も皆この元高中に混入し、而して返上米の二萬六千石たることは常に變ずることなく、郡は之を惣高割として徴收上納せり。