不作の年に在りては、子作等親作に卸付米即ち用米の輕減を請ふも、親作は從來藩より用米切を爲すべからずとの令ありたるを理由として之を許さず。隨つて子作等は、輕微の違作に逢ふも尚且つ騷擾することありき。是を以て天保九年、藩が貸米を行ふ場合には、その量に準じて、親作も亦子作に用捨すべきことを命じ、用捨米の比率も亦自ら定まることゝなれり。 用米切之儀は不致樣先年申渡候儀有之候に付、相對にて見延米と申名目にて用捨致し候者も有之体に候へども、根本かね合無之、懸り〱に切り申儀ゆゑ、子作も色々とねだり申儀も有之体。元來御貸米等有之節、用米切り不申儀は不相當儀に候間、以來は乃至御貸米之高御收納に壹割之御用捨に相當候はゞ、作徳にも壹割の征(シヤウ)にて致用捨、都而御貸米之征を以用米之内切り申儀に取極申渡候間、親作・子作心得違不致樣嚴重可申渡候。併御貸米等無之年に而も、子作致難儀用米切遣候儀は、親作・子作之間柄に可有之處、不取違樣可申渡候。以來若心得違之者有之、御貸米有之年用米不切者、又は無謂ねだり申子作有之候はゞ嚴重可相糺候間、無泥可及斷候。以上。 戌八月廿三日(天保九年) 〔河合録〕 作食米は、百姓の出作(デサク)する頃より食糧として要する米にして、藩は春季に於いて之を貸附し、その年内に返還せしめて藏納し、翌年春に至れば又貸附せらる。凡そ作食米を保存するには、諸郡に作食藏といふものあり。貸附の方法は、時代によりて異なりといへども、概ね一番作食は二月、二番作食は三月に於いて貸附し、十月若しくは十一月に至るときは二割の利子を加へて返納せしめたり。但し寛文中の規定に利なしに貸附すとあれば、初はかゝることもありしなるべし。かくて作食米貸附は多年に亙る恒例たりしが、寶暦・明和の交より凶作あるに際し、作食米が明春に至れば再び貸附を受け得べきものなるが故に、糠等を俵裝して返納米に擬するものありき。是に於いて天明元年、毎歳必ず貸附するの法を止め、既に貸渡したる米は年賦を以て返上せしめ、生計困難なる村方に限りて新たに貸附し、その返納を十ヶ年賦と定めたりしが、五年に至りて全く之を廢せり。然るに文化八年に至りて作食米再興の議あり。九年には夫食貸米を止め、作食米壹萬四千石を貸附し、概ね十ヶ年賦を以て返上せしめ、尚年々増石せんとの計畫なりしが、多年夫食米を以て生計を維持し來りたる困窮の百姓等は作食米の年賦返上を爲すこと能はざりしを以て、十年三月この一萬四千石を跡々貸米の中に編入して返上せしむることゝしたりき。