天保四年非常の違作あり。因りて領内に引免に相當する拾六萬石の貸米を命じ、翌春に至りて更に救助の法を盡くせり。是より先、四年八月本年作況の不良なるを察し、荒年に處するが爲貯穀の命を發せりといへども能く之を實行するを得ざりしが、五年には作柄良好となりしを以て、十月一作限り二萬石の上納を命じたるに、その年内に一萬七千石を納入し、殘餘三千石は翌年銀納とせり。之を御蓄米・御蓄銀と名づく。その後諸郡冥加の爲米銀を献納するものありしかば、天保七年以降或は救恤の爲に之を支出し、或は諸郡に貸付利殖し、十三年よりは籾を以て貯藏することゝなれり。 天保五年蓄米を命じて凶荒の用に供せし際、藩は諸郡にも亦毎組一ヶ所の備荒倉を起さしめんとの意ありしが、當時財界の情勢之を許さゞりしを以て、翌六年先づ要所にのみ之を建設せしめたりき。越中礪波郡の六家・池尻、新川郡の三日市・泊・滑川、射水郡の小杉・下村・加納、加賀能美郡の小松、石川郡の松任、河北郡の津幡、能登口郡の大町、奧郡の宇出津是なり。 備荒倉扁額鹿島郡餘喜村三宅秀雄氏藏 備荒倉扁額 天保八年藩は諸郡の地元を調査して租入を増加せんとの議ありしが、農民等時期遲れたるを名として一作の猶豫を請ひ、之が代償として諸郡より一萬二千石の別納指上米を爲しゝに、藩は之を蓄米の中に加へたりき。翌九年藩は地元を調査するに及び、諸郡に手上高若しくは手上免を命じたりしが、その増收額は之を經常の費用に加ふることなく、非常準備の爲に別除米として蓄積することゝし、次いで新開増免等をも之に加へ、二萬二千二百四十八石餘を收納せり。然るにこの年作毛不十分なりしを以て、一作限りその半高を百姓に與へ、爾後年々の増物成を別除米とし必要に應じ支出せり。 村方にして貧窮に陷るときは、耕作力を減じ、地味を劣惡ならしめ、收益を損すること少からざるを以て、藩の特に之を保護するを貧村御仕立と稱す。改作法施行以後に在りては、延寶年間越中新川郡の貧村を仕立てしことあり。かくの如き村方を世に改作村といひ、統督の御扶持人十村を改作支配と稱す。寶暦以降村方殊に困窮し、手餘り高といひて土地あるも耕作し得ざるものすらあるに至りしかば、安永中此等諸村に入百姓を命じ、寛政元年より貧村成立方御仕法によりて特別の保護を加へ、復古米を給與することゝせり。復古米は後に御救米と稱せられたるものにして、御扶持人十村が貧村を巡回して之を配當するものとす。天保八年又御救米を廢し、極貧の村方に限り特に保護を加ふることゝし、九年には石川郡、十一年にはその他諸郡の貧村を選び、困窮の源因を質し、米銀を與へて之を救助せしもの數十ヶ村の多きに及べり。此等の米銀は、改作所に屬する別除米を以て支出せられき。