一村内田地の地味に良不良の差を生ずる時は、百姓の持高と收穫との割合不同となるを以て、之を平均せしむべく各自耕作の田地を割り改むることあり。之を田地割とも碁盤割ともいひ、その制寛永十九年より初る。寛文二年正月田地割せざる村落は急に之を行ふべきことを命じたる如き亦是なり。然れども精農は常に土地を肥沃ならしめ、惰農は之を瘠惡ならしむるものなるを以て、田地割は一面に精農を奬勵する所以にあらず。故に元祿十六年六月の法令には、川崩によりて持高を失へる百姓を生じたる如き萬止むを得ざる場合の外は、之を施行せざるを通則とせり。後又改めて二十年を經ざれば田地割を行はざるも、變損によりて地味に差等を生じたるときは年限に滿たざるも行ふことを許し、又甚だしく長期に亙りて之を行はざる村に對しては特に藩よりその施行を命じたることもありき。 一、田地割之儀、常々田地方情に入候百姓は、年々田地拵宜仕成候。不情成者は、自田地も無沙汰に仕置候。然處毎度田地割申付候而者、情出候百姓は其專(詮)も無之樣罷成候に付、先は不申付候。去共川崩之村等は、田地有所により高所持不仕百姓も出來仕候。又は何とぞ無據品茂御座候得者、百姓中納得之上に而田地割申付候事。 〔元祿十六年御定書〕 田地割施行の方法は、他村より分地人一に算用者とも地奉行ともいふ者を囑託し、田・畑・屋敷等に竿を用ひて歩數を實測し、田畑には合盛を定め、蔭場所に至るまで凡べて持高に應じて公平に之を分配するに在り。例へば村高の總計百石なる時は、之を十個に分割して十石又は十石内外の鬮十本と定め、各鬮一本宛に何合歩の田何百歩として米詰(コメヅメ)を平等ならしむ。而して百姓の持高二十石なるものは鬮二本を抽き、持高十石なるものは一本を抽き、更に小高の者に至りては數人の組を作りて一本を抽くことゝし、將來各鬮取りの地元を作配するに在り。凡そ地元には引地と鬮地との二種あり。引地は高百石に付田六段にして、三百歩を一段とする加賀・能登に在りては千八百歩なり。高持の百姓は居屋敷を除き、この割合を以て苗代田をその希望する場所に定む。故に之を鬮に加ふることなし。鬮地は引地を除きたる殘餘の全面積にして、百姓全体に分割する地なり。又惣地といふありて、特殊の薄田を鬮以外に置き、之を一村の共有たらしめ、その卸年貢を村の萬雜中に加ふ。天保中惣地を置くことを禁じ、鬮地に加ふべきを命ぜらる。左掲第二通の丈書に於いて、鬮地の小計を加へたるものと村高と一致せざるは、即ち鬮屑としたる惣地若干あるを以てなり。凡そ請作を爲すものは、百姓たると頭振たるに拘らず、田地割の施行せられたる後改めて親作より之を借り受けざるべからず。又頭振に在りては、全然持高なきものなるが故に、己の居住する屋敷すら、田地割毎に之を高主より借り受くるものとす。