稻虫驅除の爲に夏季土用の頃太鼓を囃すことあり。石川・河北二郡に在りては何日より開始すとのことを御扶持人十村より改作所に屆け出で、改作所は之を御算用場に通告す。能美郡も亦同じく、何れも許可を待つを要せず。その他の諸郡に在りては凡べて隨意たり。害虫に關する記録は、今多く傳はらずといへども、天保十年に於ける浮塵子發生は最も損害の大なるものなりしが如し。當時能美郡徳橋組の十村田中三郎右衞門は、頗る勸農に熱心なりしかば百姓を指揮し、木綿袋又は木實油を以て之が驅除に盡力し、後世再びかゝる憂なからんことを欲して、その捕獲したる浮塵子を埴田・岩淵の二所に埋め、圓柱状の碑を立てゝ警告の文を刻せり。その埴田に在るものは高さ五尺三寸、礎石の高さ一尺。岩淵のものは高さ四尺なり。碑文の中に除蝗録といへるは、文政九年二月大藏永常の著しゝものにして、江戸の佐藤一齋序を加へ、農事一切の注意を記したる半紙二十九枚の册子なり。 虫塚 あゝいかなる故にや、當年七月上旬までは順氣むるゐ、草生よく早稻穗に出、一統悦び晝夜賑ひ候内、同月申旬のころより俗にこぬか虫俄に生じ、わせおひ〱かれかゝり、中稻・晩稻次第につよく、稻多枯何れも難儀。右虫布もめん袋を以てとり集候分、此所に二十三俵許埋おく。此末虫生る時は、艸修理の頃はやく木の實油を用ゆれば愁うすかるべし。余は除蝗録に委し。虫の愁を恐れ、後年の記録に建之畢。 天保十年九月 〔能美郡國府村埴田虫塚〕 ○ 虫塚 當年七月中旬頃より、俄に稻株よりこぬか虫多く生じ、悉稻を枯らし、一統なんぎに及び、布・木綿のふくろを以てとり集め候虫、此所に拾六俵埋おく。若此虫末に生る時は、草修理の頃早く木實油を田面にまき、拂ひ落してとれば虫愁うすかるべし。余は除蝗録に委し。虫愁をおそれ、後年の記録に建之畢。 天保十年九月 〔能美郡中海村岩淵虫塚〕 虫塚在能美郡中海村岩淵 虫塚