加賀藩に在りては、林木の保護に關して嚴法を設け、專らその生育繁殖を謀りたるが、是等のことの最も早く文献に見えたるは、慶長・元和の交前田利常が令を各地に發して、樹木の伐採を禁止せし時に在り。 制札 江沼郡 くたに村 右於此山松木・栗木以下きり取事堅令停止、若於背此旨輩有之者、則可處嚴科者也。 慶長十八年二月二日利光(利常前名)在判 〔江沼志稿〕 ○ 一、(前條略)於七尾城山伐採材木輩於有之者、相改搦取可指上事。 一、用木之山、傍(榜)示定之内不伐採樣堅可相改、若猥立入もの有之候付而者、搦捕可差上事。 一、不寄竹大小伐採候儀堅令停止候。土方分・長九郎左衞門領内より出候分者、可爲切手次第事。 右申出趣、若相違候儀有之者、兩人可爲越度候條、成其意急度可相改者也。 卯月二十六日(元和元年)在判(利常) 三輪藤兵衞 大井久兵衞 〔慶長以來御定書〕 凡そ山林中藩有に屬するものは之を御林と稱す。能登に在りては寛文中舊七尾城跡・末森城跡及び各村の論地となれるもの等十五ヶ所を選びて鎌留御林と稱し、雜木の伐採は言ふまでもなく、下草・枯枝といへども之を採取するを禁じたるもの即ちその濫觴にして、元祿七年更に新御林を設定するに及び前者を往古御林と呼べり。後また各村數ヶ所の民有林を選定して准藩有林とす。寶暦の頃に至り字附御林といふもの是なり。享利元年改めて往古御林の外一ヶ村に一ヶ所の御林格山を存し、その他を百姓稼山とす。後慶應三年に至り、他の一般領内と同じく、能登にも亦享和以降林勢の藩有とするに不適當となれるものを廢して新たに一ヶ村一ヶ所の御林山を選定することを命ぜられしも、時將に藩末に屬してその果して實施せられしや否やは疑問なり。加賀に在りては文献の存するもの尠く、林制の經過甚だ明らかならず。又唐竹及び矢箆竹の藩用に供すべき藪を、御林藪とも御藪とも稱し、御林山に准じたる取締を行へり。明治三年三月御林山等の中、水持・雪持並びに風除簿の目的に添ふものを除き、他は悉く之を民聞に入札拂に附することゝせり。