加賀藩に於ける養林の方法は詳かに知るべからずといへども、用材林は概ね一年或は二年毎に下草を刈り、又は直立せしむるが爲に下枝を卸し、林相の衰退するは多く荊棘藤蔓に苦しめらるゝにあるを以て之を除き、その外最も貴重なる林木には肥料を施すことあり。杉を種うる時は、一旦薙燒したる跡地に稗を蒔き、翌年苗を移すを通例とし、竹林は冬季風雪によりて折損するが故に、數竿を束ね繩を以てその頂上に至るまで緊縳す。而して細民が自家の燃料を得んと欲し、窃かに鋸・鎌を携へて林間を排徊し、下枝を苅り幼苗を蹂躝する如きは、最も林木に損害を與ふるが故に、藩は屢令を出して之を嚴禁せり。 林木中從來藩内に存せざりし新種も、亦往々にして移入せられしものあり。金澤附近の孟宗竹の如きは即ちその一にして、明和三年割場付足輕岡本右太夫といふ者江戸より之を齎し、庭前に植ゑたりしが好結果を得る能はざりしを以て、同七年再び之を輸入して鬱茂せしめたるなりといはる。安永中右太夫之を石川郡十一屋及び泉野に分かち、後又別所村の山地に移して増殖を計り、右太夫の子内田孫三郎も父の志を繼ぎて培養に力を盡くしゝかば、天明中に至りて金澤内外の竹林殆ど面目を改めたり。能登の各郡に於ける檔・ヒバ・ネヅ及び淡竹も、亦凡そ天明の頃藩外より輸入せられたるなりといはる。檔は本名羅漢柏、ヒバはサハラ、ネヅはネヅコのことなり。 加賀藩が樹木保護の途を講じたること、前記の如く至れり盡くせるものありしといへども、畦畔等に生じて陰影を稻田に投じ、爲に收穫を減ずるの憂あるものに至りては、宜しく之を伐採せざるべからず。是を以て天保九年令を諸郡に發して、悉く是等の雜木を除かしめたりといへども、たゞ川筋等に在りては、出水の際麁朶の用を爲すを以て、多少蔭樹となるとも之を存することゝなせり。次いで同十一年七月日蔭松伐採の法を定む。即ち蔭樹となるべき松を伐採せんとするには、先づ村方より改作所に出願するを要し、而してその目廻三尺以上のものにありては、改作所より御郡所に通牒して山廻の實地檢證を求め、改作奉行の奧書を加へて更に御郡所に送附すれば、御郡所は御算用場に對し、用材として御作事場に必要なきかを照會し、然る後之を處分することゝしたるなり。若し松樹にして損木なるか又は目廻三尺以下なるときは、改作所は御郡所の檢證を求め、その書類に御算用場の印を得て御郡所に廻附すれば、御郡所は適宜之を處分せり。