大聖寺藩が新たに松苗を植付けたる山林には、鎌留山と記したる木札を建て、稍成長するに至るまで下草を苅り若しくは落葉を搔き取ることを嚴禁せり。民有林の保護に至りては各自便法を設くといへども、山番の巡視によりてその侵害を防ぐを普通とす。藩有林を盜伐したる者あるときは、古くは之を死刑に處せしが、中頃より科料を徴したる上獄に繋ぐことゝし、藩末に至りては、民有林の盜伐者と同じく單に入牢せしむるに止めたりき。 大聖寺藩に於いて林務を董督するものを松奉行と稱し、定員を二名とす。葢し松奉行は、加賀藩の山奉行と稱するものに同じといへども、領内の山林は概ね松樹なるが故にこの名あり。次に帳前役一人・曲尺卷役一人・山廻四人あり。松奉行は春秋二次藩林を巡視し、帳前役は帳簿を保管して記録出納に任じ、曲尺卷役は測樹測地の事に當り、山廻は隨時藩有林を巡視して之を保護す。又山番ありて、地元の村落より選擧し、松奉行によりて任命せらる。その職務は日々擔當區域を巡り、給料を村費によりて支辨せらる。この外植物方奉行ありて、松奉行中より兼任し、林叢の疎密を考へて植栽補充することを掌る。 大聖寺藩に於いて最も林政に熱心なりしものを小塚藤十郎となす。藤十郎素より樹木の栽培に志厚く、山林の盛衰は獨藩の經濟に關するのみならず、又人民の利益に與ること大なりとなし、文政七年藩に植物方の吏を置き、藩有林に於ける樹木を補充し、海岸に砂防林を造り、民有地にも亦植林を奬勵すべきことを建言したりしに、藩主前田利之は之を容れ、藤十郎を以て植物方奉行たらしめ、八年松奉行を兼ぬ。藤十郎即ち大に奮勵し、自から山野を踏査して、地味を考へ栽培の法を究め、領内至る所樹木なきの地なからしめんことを期せり。藤十郎の植林に從ふや風雨を厭はず、鎗を土中に立てしめて役夫を督せしに、その柄腐朽して石突を改むること三次に及ぶ。是より後藩中屢事物を變ずるを小塚の石突といふに至れり。而も甚だしく好結果を得ざりしものゝ如く、藤十郎の著したる江沼志稿に載する自記を見て之を知るべし。藤十郎の歿したるは安政六年十二月にして時に齡七十五なりき。