大聖寺藩及び加賀藩の領内を南北に貫通する北陸街道には、亭々たる松並木あり。こは慶長六年前田利長の時初めて栽ゑしものなるが、後風損木は徒横目の檢査を經、之を關係村落に下附して跡地に苗木を補植せしめ、若しその費用の巨額に上るときは藩費を以てすることゝせり。當時の松樹は現にその一部分を存し、一里の間に片側凡そ八百三十株、即ち二間に對し一株の割合を以てせるが如く思はる。是等の並木は、夏日行旅をして暑を避けしめ、冬日は降雪と朔風とを凌ぐの利あらしめたるのみならず、夜間の通行にも亦誤りて田圃に墜つるが如き憂なく、後年に至りては農民等毎月六次日を定めて落葉を搔き燃料の補助に供することとせり。磯一峰のこし地紀行に、『大國のしるしにや、道廣くして車を並べつべし。周道如ノ礪とかやいひけん毛詩の詞まで思ひ出らる。雙木(ナミキ)の松嚴しく列りて、枝をつらね蔭を重ねたり。』といふもの即ち是なり。北陸道の外、金澤市を中心として野田往來・宮腰往來にも亦松並木を存す。前者は藩祖の墓所に至る通路にして、後者は城下と海港とを聯絡するものなり。その他松にあらざる並木には、犀川堤防の櫨並木・淺野川堤防の榎並木などあり。