大聖寺藩及び加賀藩の海岸砂地は、江沼・能美・石川・河北・羽咋の諸郡に蜿蜒として連り、冬季朔風暴威を振ふ時は、畑を荒し家を埋め、爲に被る所の禍害決して少しとせず。是を以て藩治時代に在りても、夙に之が防止の策を講じ、實績頗る見るべきものありき。葢し砂防工事は承應三年河北郡に施行せられたるを初とし、後各郡に及ぼしたるものにして、その方法は何れも簀垣を築き、内側に黒松・合歡木・柳・ハヒネヅ等を植ゑ、又野草の繁殖を保護する爲に苅草を禁止せしなり。今その事業の稍明暸なるものゝみを擧ぐ。 江沼郡鹽屋地内に在りては、天保四年より安政四年に至る二十五年間に亙り、海濱に長百八十間の簀垣を作りて砂防林を養成せり。今存する一山・宮前林・能登屋後林・三昧谷等の黒松林は皆當時植栽せるものにして、その費用は同村肝煎井齋長九郎の名を以て前後六回に亙り大聖寺藩より借用し、又同藩植物方役所よりは松苗の代一ヶ年銀五百目宛の下附を受けたりといふ。 江沼郡瀬越村にありては、天保四年大聖寺藩より銀七貫二百目を借受け、之を以て砂防の費用に當て、後毎年七百七十七匁宛を返納せり。次いで嘉永年中よりその濱地四百八十間に砂防垣を施し、安政五年十二月又藩より四百八十目の補助を受けしことあり。當時植栽せる合歡木・黒松等は、悉く飛砂の爲に埋沒枯損して今存するものを見ず。 江沼郡上木地内に在りては、明和三年大聖寺藩の御郡所より數百の人夫を出し、その海岸に長さ九百間の砂防垣を爲し、多數の松苗を植栽せり。翌四年村民藩より資金を借り以て植付に當て、三十ヶ年賦を以て返濟するの方法を設く。然るにその松苗は飛砂の爲に埋沒したるを以て、寛政二年には又御郡所より人夫を派して之が保護を爲さしめ、爾後藩末に至るまで之が維持を繼續せり。