江沼郡篠原・伊切等の砂地に松樹を植栽したるは、同郡小鹽辻の十村鹿野小四郎の努力による。小四郎夙に殖産興業に志あり、屢大聖寺藩に建策して容るゝ所となる。天保七八年の頃小四郎はその海岸に砂防林を作らんと欲し、先づ合歡木を植ゑ、次いで黒松苗を付けたるも、暴風砂を飛ばして根を露出せしめ、隨つて植うれば隨つて枯るゝの憂を免れざりき。是に於いて小四郎は、土俵を砂中に埋め、その中に植栽するの方法を用ひ、遂に成功して全く從來の面目を一新せり。今篠原・伊切の間六十町歩の地に黒松林を見るもの即ち是なり。小四郎又江沼郡那谷より能美郡大杉谷に通ずる沿道が杉の植栽に適するを知り、數年にして二十町歩以上に植栽せしに、藩はその功勞を嘉し、山林若干を與へて之を賞したりき。小四郎の得たる地は、今の那谷村・分校村の間に介在し、小四郎山の名を以て稱せらる。小四郎文化二年七月を以て生まれ、明治元年七月享年六十四を以て歿す。 能美郡安宅地内にては、文化中その濱地五十七町六反歩に、黒松十九萬本を植栽したることあり。現に黒松林を存す。 石川郡下安原に於いては、文政より天保に亙りて、荒川三右衞門といふものありて砂防植栽の計畫を立てしも、經費を得るの途なくして、終に目的を達し得ざりしことあり。 河北郡大根布・向粟崎地方には、元祿の頃屢藩より松苗を下附したる記録を存す。 羽咋郡川尻には、藩末の頃喜多某ありて、人家と耕地とを保護せんが爲造林を爲さんと欲し、鹿島郡鹿島路より黒松苗を齎し、河北郡若緑より合歡木苗を得、以て五十餘町歩に植栽せり。後延長十八町に亙る一大障壁をなし、草高三千石の稻田を安全ならしむることを得たり。