羽咋郡今濱に於いても亦人工植林によりて砂防の目的を達したるものゝ如く、現に源右衞門林と稱する老齡の松林を存せり。 羽咋郡今濱新にては、海岸に造成したる砂防林の内側に、草高百六十石の田地を開墾せり。その松林は現に鬱蒼として存す。 羽咋郡宿には、藩末の頃十村岡野幾平あり。幾平は熱心に砂防の經營に從ひ、二重捻の萱簀を考案して實績を擧げ得たり。その松林は、現に砂防の目的を達するのみならず、落葉・枯枝附近三百餘戸の燃料を助くといふ。幾平明治三十四年三月歿し、樹地院と法諡せられしもの、葢し生前の事業を表せしなり。 羽咋郡荻谷に岡部七左衞門あり。元文より明和に至る間附近諸村の十村たり。七左衞門その海岸一帶に植林の必要を認め、樹苗を給付して之を奬勵せしに、大に實績を擧ぐるを得たり。七左衞門の村肝煎を招集して諭示せる書状現に存し、如何に彼が目的を貫徹するに熱心なりしかを見るに足る。七左衞門安永四年四月を以て歿するや、塵濱の村民等その徳を追慕し、寛政六年四月村端に一祠を建て、肝煎吉田十兵衞の靈と共に之を祀る。宇賀神社と稱するもの即ち是なり。 各被罷出太儀に存候。頃日植松緑も心克延び、並砂畑蒔植仕置候物大勸(マヽ)に相見え、拙子多年工夫仕候通り、少々宛茂林立候躰に相見え、勿論砂畑に仕、指當其村中少々宛も、人々にタソク[多足]に相成可申与、於拙子無限悦申儀に候。然上は松木御縮方屹度相守、勿論諸事縮方猥之族無之樣に、村中妻子迄も常々可被申付置事。 戌五月十九日荻谷村七左衞門 塵濱村肝煎組合中 〔岡部氏文書〕