是等は皆寛永五年鑛鋪崩壞以後に屬するものたるが故に、寶達金坑が復興せしことの左劵とすべきものなり。當時金坑の經營は、再び藩の手を離れたりしが如く、寶暦十四年の調書に據れば、寶達金山は元祿六年に金澤の町人泉屋傳左衞門といふ者山師たりしも、何れの年より彼がこの業に從ひしかを明らかにせず。現今は寶達村より運上金二枚一兩を五月・七月・十二月の三次に上納すといへり。されば元祿以降寶暦の頃には尚多少の産出ありて、商賈・農民之を採掘し、藩に對して運上を納入するの義務を負擔せしなり。その後鑛況益萎廢して遂に全然廢棄するの止むなきに至りしが、坑夫等能く土工に熟せるを以て、加越能三國に出でゝ盛に堤防・隧道・用水路等築造の黒鍬業に從事せしかば、藩政時代に於ける領内の黒鍬は殆ど寶達村民の專業なるかの如き觀を呈し、遂に黒鍬業そのものを呼びて寶達といふに至れり。