石川郡白山(シラヤマ)村にも又金鑛の採掘せられしことあり。今尚その鑛鋪の遺址を存す。元祿十年六月新庄金山裁許分部半丞の言上書に、下白山金山と載せたるもの即ち是に當る。然りといへども、その採掘の何れの年に初り、而して隆替の状の果して如何なりしかは之を知るベからず。 石川郡尾添村にも亦銀山ありしことは、寛文六年の文書に、『尾添村に最前者銀山就有之、小屋懸躰之町御座候。唯今銀山致退轉、町屋も無之候。』といへるによりて知るべし。 白山(ハクサン)の山中目附谷(メツコダニ)の東岸にも往時金坑ありたりといへり。金子有斐の白山遊覽圖記にいふ。金鑛山(カネホリヤマ)は靈瀑(レウノタキ)の北に在りて、幽壑深邃人稀に至る所なり。老耄獨語にいふ、永祿四年周防の人山口三之輔といふ者、尾添村の勘助及び瀬戸村の長太夫と開坑採金を謀りしが、八年五月地震の爲に崩れ、長太夫及び役夫十餘人壓死し、今絶壁となると。