石川郡犀川の水源なる倉谷山に金銀坑あり。慶長十三年倉谷の農民新右衞門・八郎右衞門二人初めて之を採掘すといひ、元和・寛永中に至りて産出最も多額となる。葢し加賀の鑛山にして、業績の盛況を呈したるもの實に之を以て嚆矢とすといはる。 定 くら谷山 一、金子倉谷山に而商賣可仕候事。 一、倉谷山三里四方之内見立山仕、金出申に付而者御案内可申上候事。 一、重倉に金ほり共町屋相立、可致商賣候事。 右條々、何樣之出入有之共、爲山中令相談、相究可申者也。 慶長十七年七月二日河内(奧村榮明) 出羽(篠原一孝) 山城(横山長知) 〔萬治二年以前御定書〕 ○ 御尋に付申上候。 一、石川郡倉谷かね山は、銀山は大、金山は少に御座候。山出來の年數は、九十年許に罷成申由承及申候御事。 一、山見立申者は、倉谷村新右衞門・八郎右衞門と申者之由申候。山さかり申儀は、八十ヶ年以前より二十四五ヶ年之間にて、御奉行數多御附被成候へ共、何れも御名覺無御座候。其時分御運上銀一ヶ年に百貫目許り上り申由承申候。但し年により高下御座候と承申候御事。 一、山さかり申時分は、家數は四百軒許も御座候由承申候へ共、其後家數も年々に退轉仕申候故、寛永十六年より御奉行御引被成、其砌より御會所樣御裁許に而、所々山仕に被仰付、御運上銀は一ヶ年五貫目・七貫目又は銀十枚二十枚之事も御座候。彌山退轉に罷成、萬治二年より御郡御奉行樣御裁許に罷成申候。今程家數二十五六軒も御座候處、御田地少も所持不仕候故、古まぶをさらへ少のかねをほり、渡世を送り申候。只今は御運上銀、一ヶ年銀六枚宛指上申候事。 右之通承及申に付書上申候。以上。 延寶八年十一月十日倉谷銀山町肝煎加右衞門 同喜兵衞 〔貨幣録〕 前記延寶の書上に、倉谷鑛山の草創を九十年許以前に在りとするは過聞なるべし。三州水路大經に據れば、犀川の水源に四邑あり。その口なるを日尾・見定とし、奧なるを二又・倉谷とす。而して倉谷山の東には金鑛を、西には銀鑛を産す。八九十年前に至るまではその採掘頗る盛なりしも、今は全く廢絶し、鬱蒼たりし山林も亦既に濫伐せられて荒涼を極むと言へり。この三州水路大經は正徳四年の著なるが故に、八九十年前は即ち寛永中に當る。龜尾記にも、亦倉谷鑛山の隆昌なりしは、寛永の末年より承應・明暦に至る間なりとし、當時新造の家屋二百餘に及び、銀山町・後町・新町・遊女町・重倉町等に商戸櫛比し、歌舞伎・相撲などを興行するに至りしが、洪水の害に値ひて二又に移り、再び新市街を現出すといへり。寶永誌に、倉谷村銀山町に寺跡四ヶ所ありて、之を法住寺・宗榮寺・廣徳寺・誓入寺と名づくとし、貞享二年倉谷山宗榮寺由來書に、當寺の開山は能登妙成寺日條の門下にして名を素閑といへり。元和七年上木五郎左衞門・片岡彌右衞門その他有志の人々、倉谷銀山に一宇を構へ、素閑を請じて之に住せしむ。然るにその後坑況蓑微して、檀徒皆移住したるを以て、宗榮寺も亦金澤の卯辰に轉じたりと記せり。次いで明和元年九月金澤の町人道法寺屋藤右衞門は、往時の鑛鋪たりし黒平・弓落の地が、最も含銀量の多きを測りて試掘を出願せしことあり。又安永元年には、金澤尾張町の貫屋與左衞門も亦之を復舊せんと計畫し、下野阿曾郡荒屋村の人左門をして黒平坑を試掘せしめしことあり。後者の場合には、その頗る有望なるべき報告を得たりしを以て、藩に出願して採鑛に着手し、翌二年閏三月與左衞門より花降銀を藩侯の内覽に供するに至りしも、産出少くして收支相償はず、終に業を廢せしかば、五年藩は銀山町屋敷の撤去を命じたりき。こゝにいふ下野の左門の如きは、採鑛に經驗あるを名として諸國に放浪し、資本家を誘惑して私利を貧りしものなるべく、當時是と同種類の所謂山師なるものの害毒を流しゝこと多きは、之を左記の落書に徴して知るべきなり。 夫れ人間の不仕合なる相を、つら〱觀ずるに、凡そ實なきものは、銀山初中(シヨチウ)終、魔のわざの如くなる旅人なり。されば未だ萬貫のかねを掘り出したりといふ事をしらず、實正しりがたし。今に至りて、誰か百目の灰吹をたもつベきや。我や先き人や先き、山さけいづるとも知らず、又いでん共知らず。おくれ先きだつ人は、元の銀すゑの人の贋吹よりしげし。あしたには當難ありて、タベにははや立ち行く身也。すでに公儀のはげしき風來りぬれば、則ち二つの穴忽ちに閉ぢ、一つのかねづる長く絶えぬれば、吹屋空しく變じて、旅人の姿消え失せぬ。土かひの鼻毛立あつまりて、歎き悲しめどもさらに其の甲斐あるべからず。是非もなきことなればとて、山小屋に至りて見分となりぬれば、から土のみぞ殘れる。あはれといふも愚なり。されば人間のはかなきとと、慾と智惠との境なれば、誰の人もはやく、商賣の一大事を心にかけて、情を出し申すべきものなり。あなこひし〱。 〔銀骨の御文〕