金平銅山は天明三年澤村の源次が、金平の地内字赤芽に於いて發見開坑せし所なるも、遂に良鑛脈を得ざりしかば、同四年より休山とせり。次いで文政三年藩は之を再興せしが、安政二年六月又源次の曾孫源三郎の自稼山に命ぜられたるを以て、源三郎は選鑛製錬に改良を施し、坑況亦稍良好に向かひ、一ヶ年の製銅十五萬斤を得るに至れり。その後文久三年九月藩は更に之を御手山となし、明治三年八月藩の聘用したる獨逸教師フオン・デル・デツケンをこゝに派遣して、業務を改良せしめんとせしが、時恰も廢藩に際せしが故に、未だ着手するに及ばずしてデツケンは解雇せられ、銅山は自ら政府の有に歸せり。