製箔の藩政初期より既に行はれたることは、前田利家が肥前名護屋在陣中文祿二年二月七日附を以て、七尾の留守三輪吉宗に與へたる消息に、『金子三枚か五枚、はくをうたせ可申候。五月中にこと〲く出來候樣に可申付候。加州にても銀はくの事申付候。』といひ、同日金澤の留守篠原一孝等に對しては、『金はくの事は能州へ申遣候。其元にはく屋有次第に、銀はく五枚分か十枚分うたせ可申候。五月中に出來候樣にかたく可申付候』とあるによりて見るべし。而して前記能登の工人なるものは、左の系圖に見えたる箔屋佐助の徒なるが如く、その屋敷を天滿にて給はれりと記するものは、鹿島郡矢田郷村矢田の一部に外ならざるなり。 浪人侍、京の山崎に罷在。忰佐助箔を打ち覺申候故、北國に下箔を以商仕候。 松井惣兵衞━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃箔を打ち殿樣に指上候處、殊の外御意に入、諸役御淨法、寛永十六年正月 ┗━箔屋佐助━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━箔屋藤四郎 免を被仰付候。又候天滿にて百聞四方の地拜領仕候。廿七日病死、年七十四。 〔七尾町箔屋系圖〕