その後藩内の製箔業が如何なる經過を取りしかは明らかならずといへども、幕府の法令によりて、江戸若しくは京都以外にその製造を禁止せられたるを以て、必要に際し之を兩地より購入使用したるものゝ如し。然るに文化の頃に至り、士民の風俗一般に向上して奢侈に傾き、住居と器具と服飾とを問はず、金銀箔を要すること多かりしは論を待たず。隨ひて既製品を輸入するの不便と不利とを避くるが爲、痛切に自給の必要を感ぜしが、偶文化五年正月金澤城二ノ丸の殿閣悉く烏有に歸し、次いで之を再營する爲莫大の金箔を要せしを以て、幕府の法令が弛緩したるに乘じ、その製造を計畫するに至りたりき。時に押箔業者に安江木町の箔屋伊助なるものあり。藩乃ち伊助に命じ、職工を京師より聘して製箔せしめしが、豫定の製造終るに及びて職工等皆歸洛せしも、伊助は略技術を傳へたりしを以て、自ら棟取となりて、徒弟等と共にその業を繼續したりき。然るに製法未熱にして好果を得る能はざりしかば、伊助は幾くもなく之を廢したりしが、徒弟等材木町なる安田屋助三郎の許に集りて業を營み、一面には越中屋與三右衞門を上洛せしめ、近江屋忠兵衞といふ者に就きて傳習する所あらしめしに、その歸るに及びて金澤の製箔術全く大成せり。是を以て文政二年、前田齊廣の菟裘を竹澤御殿に定むるや、所要の金箔は悉く安田屋の供給する所なりき。