金澤の金箔製造業に對する免許を得んと欲して、江戸に運動を開始したるものは、卯辰の人能登屋左助にして、彼は先づ金座手代鹽崎勝兵衞より、富山藩が天保二年城郭火災に罹りたるを名とし、五年より七年まで所用の製箔を許されたることあるを知れり。この事固より前例となすに足らずといへども、左助は方法の如何によりて必ずしも成功せざるにあらざるを思ひ、同業者の承認を得、己一人の名を以て十三年四月初めて願書を藩の町奉行に提出せり。葢し左助は、江戸製の金箔を輸入するも年月を經る時は色澤の美麗を失ひ、或は損じ箔を生じて商品とすべからざるを以て、自ら領内に於ける金箔の卸元となり、その損じ箔は之を再製するの許可を請ひたるものにして、陽に再製と稱して陰に私造の默認を得んとしたるなり。然るに藩はその後幕府に對して何等の手續を執らざりしを以て、左助は進んで之を解決せんと欲し、江戸に赴きて鹽崎勝兵衞及び箔主付柏原吉右衞門と協議する所ありしに、吉右衞門は方今銀箔製造が京都に限り、金箔は三都に限らるゝが故に、如何なる名義を以てするも打箔を許されざるべしとせしが、鹽崎勝兵衞の調査により尾張藩に藩侯自用の箔を製し賣箔は江戸製のものを專賣するものあるを知り、歸國の後十一月改めて左の願書を提出せり。 乍恐申上候 一、私儀金箔等打立申、製法手馴罷在申候。然處金箔之儀は、乍恐公儀御定茂御座候事故、無謂打立申儀者、不相成譯に奉存罷在申候。就夫於御當地打立申儀相叶候者、乍恐御國御益にも相成可申与、數年種々手を盡心配仕罷在候内、私一類に鹽崎勝兵衞与申者、江戸金座後藤三右衞門之手代仕罷在候に付、前段之趣兼而存念之儀に付、當八月奉願上、江戸表右勝兵衞方え罷越、何与歟工夫を以於御當地金箔打立渡世可仕手段も無之哉与内談仕候處、後藤三右衞門方に金箔主附有之、東三十三國者柏原吉右衞門与申者箔縮方役相勤罷在候旨申聞候に付、右勝兵衞等え手引を以、彼人え引合遂内談申候處、尾州・仙臺・會津・富山右四ヶ國に例有之候間、江戸御屋舖御留守居樣より御願立も御座候者可被爲有御聞屆哉。右四ヶ國之内尾州樣之御振合に相成候者、乍恐彌御國御益にも相成、其上公儀御縮方に茂可相成候に付、於御國從公儀御入立之金箔賣捌人相立候者、加越能・富山・大聖寺等に金箔等取扱申者共之取縮方にも相成可申、猶更私手前に而願附之趣相考可申与内意申聞罷在申候。然所依右當九月勝兵衞より別紙内状を以申越候に付、乍憚奉願上候。何卒金箔打立方尾州樣之御振合通被爲仰付候者、乍恐御上御用箔者於御當地打立方仕、御用相勤申度奉存候。前條申上候通、箔御取縮方茂御座候に付、賣箔之儀は江戸表より取寄、賣捌方私え被爲仰付可被下候樣奉願上候。右に付元來金箔与申は至而秘傳御座候而、取扱方により切れ金杯多出來、曁寢金に相成候分者金性替、兎角損多に相成、費相懸り申品に御座候故、右等之箔御當地に而潰し箔に仕、打直製法仕候得者如元宜敷箔に相成、毛厘も麁末に相成不申儀御座候間、何卒願之通被爲仰付被下候者、右潰箔製法之儀者私同職之者共与申合、何茂一統渡世にも相成可申儀御座候。尤御聞屆之上者重而仕法書可奉指上候。此段御慈悲を以被爲聞召上、格別之御詮議之上願之通被御付被爲下候者難有添可奉存候。以上。 卯辰西養寺前能登屋 天保十三年十一月左助印 町御奉行所 〔箔方諸事舊記〕