前記の如く左助は金箔賣捌の許可を得たりしが、同月二十二日更に江戸の銀座役所に至りて銀箔賣捌をも許可せられ、江戸に於いて之を購入せんとする時は、京都銀箔取次人呉服町松屋市左衞門に就きて之を得べく、京都の銀座にも既に移牒せられたるが故に同地より直輸入するも亦妨なしとの指令を受けたり。これより後左助は能登屋を改めて越野氏を稱し、一刀を帶するの資格を與へらる。これ江戸の金座との交渉上、平町人としては困難なる事情多かりしによるといふ。而して金箔打立に關しては、當時柏原吉左衞門より左助に與へたる書翰に、今後鹽崎勝兵衞に就きて許可を得るに盡力すべしと記すといへるも、その事實となりて現るるまでには尚二十年の歳月を要したりき。 是より先金澤の箔屋伊助・越中屋武助・長沖屋伊兵衞・山屋伊右衞門・木屋嘉助・林屋宗兵衞・淺地屋吉太郎・林屋權兵衞・輪島屋伊助・輪島屋右平・一ノ谷屋次左衞門・越中屋甚七・能登屋七兵衞・井上屋甚兵衞・安田屋助三郎・安田屋孫助・杉本屋平八・原屋與兵衞・氷見屋善兵衞の十九人は、各若干の徒弟を擁して、眞鍮・銅・錫箔打立の名義により、幕府發行の金貨を地金として金箔を製造し、その大部分は看板を掲げたる四戸の賣箔業者及び看板を掲げざる五戸の同業者によりて賣捌き、一部は製箔者直接に密賣せり。然るに今や左助が江戸金座の特許によりて江戸箔の賣捌と取締とを許されたるを以て、藩は此等の賣箔業者を町會所に召喚して之が賣買の禁止を命じたりしに、彼等は直に之に服從せり。之と同時に左助は製箔業者と交渉して、その製造せる眞鍮・銅・錫の箔及び鈖類は一旦悉く左助に於いて購入し、然る後金銀箔と共に尾張町井筒屋文藏・片町津幡屋勘七をして賣捌かしむることゝし、又富山・高岡・大聖寺に支店を設けたりき。 然るにこの法は充分に行はるゝことなく、依然左助を經由せずして直接密賣買するものありしを以て、左助は更に之が防止策を案出し、嘉永四年二月職方一同を以て團體を組織せしめ、その資産に應じて一口銀二百目の割合にて醵出せしめ、惣口數二百十八口を得、賣捌によりて收めたる利益は毎年七月・十二月の兩次に之を分配することゝせり。而もその効果の擧らざりしこと尚舊の如く、職方の者は株主となりながら直賣を爲しゝのみならず、足輕等の内職として製箔に從事するものに在りては固より此等の規約を無視し、金銀箔も亦當然密造せられしかば、左助の江戸及び京都より購入したるものは販路を失ひ、或は毀損品を生じて遂に營業を維持し得べからざる悲境に陷り、安政元年十二月眞鍮・銅・錫箔及び鈖類の買入賣捌を停止し、株主の出資元銀は悉く之を返付して團體を解散せり。