かくて直し箔の名義による金箔製造は、藩の諒解のもとに繼續せられたりしが、而も幕府の法律に照すときは尚密造の範圍を脱すること能はざりしが故に、左助は不屈不撓の精紳を以て之が公許を得べく努力したりしに、遂に元治元年二月に至り漸く一歩を進めて、賣箔は尚舊の如く江戸より購入すべきも、藩の御用箔に限りて打立て得べきことゝなれり。是に於いて御用箔を製せんとするときは、當然その上澄を江戸より購入せざるべからざるに至りしが、その上澄は、江戸の上澄賣渡所が金座より地金を得て上澄に打立てたる後、再び金座に齎して實質量目の檢査を受け、一袋毎に封印を施して賣出すものにして、左助の之を得んとする場合には、何色上澄何程を得たしとの書面を認め、藩用に相違なしとの藩吏の奧書を請ひて提出せざるべからずと規定せられたりき。然るに此の如き煩雜の手續によりて、故らに遠く上澄を輸入するは固より不便なるのみならず、藩用の製箔にのみ限定せられて一時に大量の上澄を得ること能はざりしを以て、左助は時々僅少の上澄購入を出願して、幕府の威嚴を害はざらんことを期し、その大部分は之を私造せり。 然るにその後幾くもなく、左助は寶藏寺町の工場を閉鎖し、こゝに從業せる職人及び手傳人を各棟取の私宅に分割することに改めたりき。この棟取は前にいへる五人以外、文久三年新たに加へられたる能登屋和兵衞、及び銀箔棟取たる氷見屋善兵衞なりしが、藩は元治元年七月六日此等を町會所に召喚し、爾來箔工場を各棟取の私宅に設け、所要の上澄及び切紙は左助より購入すべく、製造せる箔及び屑箔は又凡べて左助に提出すべきことを示達したりしが、職人・手傳人の數を限定し、製箔の賣捌によりて收むる利益を二百口の持株に配當するの制は尚之を繼續せり。左助が何故に共同工場の解散を斷行したりしかの理由は明らかならず。彼が同年六月藩に稟請せる仕法書には、方今物價高直にして請地(ウケチ)に工場を建設するは雜費を増加するの恐ありと主張すれども、此の如きは表面上の口實にして、實は各棟取間に於ける勢力の衝突、若しくは工料に關する紛擾ありしに因るなるべし。