次いで藩末に至りて國内騒擾し、贅澤なる裝飾品は一時に販路を失ひ、箔業者の困難容易ならざりしことは、慶應三年棟取より左助に提出せる書類中に、『當春以來私共於手前宿料等取受不申、無賃にて多くの職人共宿仕罷在申候所日々難澁仕、』とあるによりて之を知るべく、遂に明治元年當分打立方の休業を見、二年金澤藩の商法局より大藏省に差出せる伺書にも、『今般右金銀座御指止に相成候に付、職方等の者地金取受可申道無御座、是迄の活業に放れ、迷惑難澁罷在候者多く、』といへば、此の頃尚地金の缺乏によりて就業し得ざるものあるの悲境に在りしなり。 製織業に就いては、加賀の絹、能登の縮等、稍沿革の繹ぬべきあり。今此等の大略を記する所あるべし。 小松附近に於ける製絹の文献に見えたるは、文明十一年道興准后の回國雜記に、能美郡本折に機織あるを記したるを初とす。又天文の頃石川・河北二郡にも多數の製絹業者ありしことは、之を第一編に述べたるが如く、慶長三年六月三日前田利長が封内に於ける織物の尺度を定め、絹は長さ京尺二丈五尺、布は京尺二丈八尺、幅は並びに舊の如くし、七月以後この法に遵ふべきことを令したるも、是等の製造業者に對する準則たりしなり。當時小松に於いて、城主丹羽長重の爲に旗幟の用に供する絹を製して献りたりと傳ふるは、單に口碑たるに止り、何等確實の證憑を發見し能はざるも、固より當にこの事ありしなるべく、その製は即ち撰糸絹の類なりしならんと思はる。次いで前田利常の小松を以て菟裘の地とするに及び、大に地方の産業を奬勵したりしかば、斯業頗る進歩せりといふ。前田綱紀の世以後に至りては、製絹に關する文献初めて見るべく、寛文六年正月小松の絹判賃を金澤並にすべしとの命あり、當時既に捺印によりて織物税を徴せるを知り得られ、小松の判賃が從來稍下直なりしを、この年以後金澤産のものと同率たらしめたるなり。延寶五年初めて領内一般に、絹・片重しけ絹・こすわ絹・紬類・八丈等は一疋に付銀三分宛の判賃、はした絹は四尋以上一疋分の判賃を納め、竪糸を他所に賣出すものは亦四十目以上百目に付三分の判賃を納めしむることを定む。次いで元祿十年に成れる國花萬葉記に載する加賀の物産に、小松絲・同撰絲・同羽二重・奉書の名目あり。同十一年の公文書には、絹道組頭村井屋又三郎・村井屋庄左衞門・山上屋吉右衞門等の名あり。絹道組頭は、小松に於ける織物業を取締る機關にして、その事務所を絹道役所又は絹道會所といへり。而して正徳五年閏正月の絹及び絲判賃に關する規程、享保七年二月の絹肝煎の執務規程等は、この前後に於ける法交中最も重要なるものとす。 絹並糸判賃銀子之覺 一、絹一疋に付而如跡々判賃銀三分宛取可申、練絹之儀も同前之事。 一、侍中に而仕る絹判賃同前之事。 一、竪横糸之蚊屋、絹同前之事。 一、はした絹四尋より内は運上有之間敷候事。 一、竪糸百目に付而三分宛判賃銀取可申事。 一、竪糸不及四拾目分は運上有之間敷候。四十目より上賣申に於ては、地・他國共に百目に三分宛之算用に判賃取可申事。 一、荒まじり在郷之出し糸、其儘他國え賣遣候儀無之事。 一、同在郷出し糸少々に而も繰分賣に於ては、地・他國共に百目に付而判賃三分宛取可申事。 一、同在郷出し糸其儘地に而賣買は運上無之事。 右ヶ條書之通相違無之樣に裁許可仕者也。 正徳五年閏正月十一日 〔小松町舊記〕 ○ 絹肝煎え申渡候覺 一、向後御召絹有之候刻支配仕迄に而無之、惣而絹道組頭中、絹道之儀會議も在之刻罷出示談可承候事。 一、絹仲・糸仲・絹荷持之分は支配可仕候。左候はゞ勤方善惡評定仕、萬端及裁許、尤時々絹道與頭(クミガシラ)中え相達可請指圃。勤方不宜者或絹屋不勝手之品候はゞ、早速致吟味其品可申斷候。病死仕刻罷越見屆、身代潰申節法之通絹道組頭請指圖、諸縮可仕候事。 一、絹道往古之格猥に無之爲に申付候役人に候得者、右支配之者引廻候儀与心得間敷候。絹道之障に罷成候新格らしき儀出來不仕樣、急度相心得可相勤事。 一、絹道組頭當番之者、御用有之町會所え罷出候節は、則當番絹肝煎可罷出候。不殘罷出候節兩人共可罷出候事。 右勤方申渡候に付給銀一人四百目宛、(中略)申渡候事。 右之通可得其意候事。 亨保七年二月十四日 〔小松町舊記〕