寛延三年九月小松了助町御座屋又兵衞といふ者、町奉行に請ひていふ。近年絲の生産不良にして價格連りに騰貴し、絹屋にして絲を仕入るゝこと能はざるものあるが故に、絹の産額隨ひて減少せり。且つ先年來絲の代銀は一ヶ月切に仕拂ふの商慣習を有したりしが、本年秋以降絲宿等現銀にあらざれば賣渡さず、爲に益絹屋の困難に陷りたるを見る。若し又兵衞をして散絹屋仕入問屋並びに絲問屋を營むを得しめぱ、散絹屋に資銀を融通して生産額を増加せしめ、以て藩益の一端を補ふことを得ん。絲の賣買に關して收入する口錢は尚從來の如しといへども、問屋以外の絲宿にて賣買するものは絲百目に就き銀一分宛を徴し、絹屋の藩外に出でゝ直接買入るゝ絲に對しては固より之を徴せず。更に絲の重量を絲目改所にて檢したりしことを罷め、自今之を又兵衞一人に命ぜんことを望む。その打賃亦舊の如くなるべし。問屋營業に對する運上としては、毎歳白銀十五枚を絹道方の費用中に納附せんと。奉行乃ち又兵衞に問屋たることをのみ許し、絲宿の賣買に一歩の口錢を收入することゝ、絲目改を委任することゝは之を卻けしが、後又一歩口錢を許し、之に對する報償として絹道役所に毎歳銀十枚を納むべしとの指令を與へたり。この後久しきに亙りて製絹に關する文献を發見する能はず。僅かに明和六年五月絹肝煎より新糸出來の期將に近からんとするも、方今絹相場極めて下直なるを以て、高直の絲を購入せざるに注意すべしと通牒したるの類を見るのみ。