寛政元年十月小松町奉行令す。近年絹仲・絲仲等の徒、商業上の貸借を精算せずして破産を裝ふものあり。自今以後此の如き輩あらば、先づ家財を沒收して負債を補ひ、足らざるものは請人をして辨ぜしめ、又同業をして補償せしむべしと。文化八年九月小松町會所より、當地に買入れたる絲を、他國他領は言ふまでもなく凡べて他所に賣渡すべからざる舊格なるに拘らず、近時大聖寺町・梯出村等に賣渡すものあり。若し之を發見する時はその絲を沒收したる上嚴罰に處すべしと令し、同九年には藩の御算用場より、領國出來の絲を他國に賣出すの禁令を破るものあるを以て、關係諸吏特に注意する所あらざるべからずといへり。絲賣買に關する法令は、何れも製絹業者を保護するの目的に外ならざるなり。 小松絹方預手形能美郡小松町上野專一郎氏藏 小松絹方預手形 降りて文政の頃に及びては、小松の製絹業益衰微したるが如く、同二年の覺書に『絹之儀、慶安・承應之頃は莫大出來之躰、其後寛延之頃より六七萬、或者八萬疋計出來之儀も有之、年々増減者有之候得共、右之通織高次第に相減候趣に御座候。』といひ、且つ織高を以てすれば、明和・安永の頃にも尚今日の如きことありといへども、品等に上下の別あるが故に、收入の銀高に至りては甚だ差あることを言へり。次いで同六年の書類にも、方今小松産絹の賣行不良なるも、之を貯藏するときは絲代を運轉し得ざるが故に投賣を敢へてするものありて、絹の價益下直に傾き、遂に機業を停止するものすらありと記し、之が救濟法として、絹を京都又は松任にて染め、金澤の呉服店をして賣捌かしめんことを計畫せり。その實際に行はれしや否やは明らかならず。