天保五年正月藩の御算用場より小松町五間堂屋次郎作・久津屋次助二人に、初めて木綿判押役人を命じ、同時に絹・布判押人の勤方を改む。之によれば、從來製する所の絹・布に丈尺不足のものありしを以て、長さは幕府の規定する一反二丈七尺二寸を嚴守し、幅は九寸五分を普通とすべく、無判の反物賣買を禁ずるも、端(ハシタ)は無判にて取扱ふことを得、その長さ二丈四尺五寸に及ぶ時は兩斷すべきこと等を定めたり。同九年小松町年寄等糸・絹仲買株立の制を廢し、何人といへども出願許可を得て之を營むことを得ベく、その口錢は當分從來の半額とすべき通牒を發す。弘化四年絹屋の使用する糸は、毎年新糸出來の際買入を要するも、近年不融通の爲多量の仕入を爲す能はず、延きて下職として手間仕事により糊口する細民の業を失ふものあるを以て、町年寄等之が救濟の爲に資金を御算用場に求めしに、御算用場は先づ銀三十貫を貸下げたり。この資金の取扱方法に關しては、新絲出來の時に際し町方にて仕入を要するものは、買入絲を絹道役所に擔保として銀子を借用し、次に絲を要する時は元銀の辨濟をなさゞるべからざるも、絹を以て入替ふることを得とし、期限は三ヶ月なるも製絹の工程により許可を得て延期し、翌年四月五日までに全部請出さゞるべからざる等の事を定めたり。嘉永四年十二月小松町年寄は、絹業者の紀綱を振肅せんが爲規定を新たにしたりしが、その中に、機織奉公人出代の際には先主より解雇を證明したる差紙を與ふべく、この差紙を有するものにあらざれば雇傭するを得ずとし、又從來機織に從事せしことなきものを使用する時は棟取に通知すベく、絹屋にして業務を廢する時はその所屬機織屋に差紙を與へ、この差紙を有する機織屋にあらざれば他の絹屋より製織を託する能はざること等を定めて、同業者の紛擾を避くるに努めたりき。然るに、その後製絹の業益衰微したりしを以て、嘉永六年八月小松町會所は遂に絹道役所の諸役人以下絹・糸仲買及び問屋を廢し、絹産業に關するものをして自由に從業せしめ、且つ商況の隆盛を期する爲に、縮緬類を初め他國産の輸入を禁止し、以て自國産の需要を喚起せしめんとせり。この際絹道役所に代るべき多少の機關は必ず之を置きしなるべしといへども、今之を詳かにする能はず。