江沼郡に於ける絹織物の業は、古來多少これありしなるべしといへども、稍その沿革の知るに足るべきは元祿以降にあり。當時荻生村の産にして京都西陣に女工たるものありしが、その歸郷するに及び地方の蠶糸を用ひて之が製織に從ひしが、後郡内庄村に嫁したりしに、餠屋彦八といふ者自ら資銀を提供し、村内の婦女をして傳習せしめしかば、製織の業大に隆盛に赴けり。是を以て正徳年中大聖寺藩主前田利章は、彦八を絹肝煎たらしめ、藩内の製絹總べて彼の檢査を經たる後京都に發售せしめしかば、庄村は忽ち殷盛を加へ、一時市街の状を呈したりといはる。彦八の後裔彦九郎・彦右衞門亦その職を襲ぐ。然るに延享中澤屋仁左衞門といふ者ありて、庄村より大聖寺町に移住し、少祿武家の妻女をして製織に從はしめ、盛に之を輸出したりしかば、藩はその功を賞して仁左衞門に絹頭の稱を與へ、子孫亦この職を襲ぐに至れり。當時大聖寺絹の仲買を業とする京師の商人に、一文字屋茂左衞門・糸屋長左衞門・糸屋助次郎・日野屋吉左衞門等ありき。是に於いて庄村の製絹年と共に衰頽し、その農村の副業たる故を以て田圃絹とさへ呼ばれたりしが、之に反して大聖寺の撰糸絹は益名を著し、天保中には別に小節絹・麁絹等を製出せり。小節絹は上州飯野の産に倣ひたるものにして、一に飯野絹ともいひ、麁絹は武州熊谷の製に模したるものなるを以て、又武州絹ともいへり。而して當時の年産額は約二萬疋なりしが、安政以降外國貿易の開かるゝに及び、俄に増加して四萬疋となり、之と同時に粗製濫造の弊に陷りしを以て、慶應中再び減退し、僅かに一萬疋を算せりといふ。