羽咋郡安部屋にも亦古來白布を産し、之を安部屋布といひ、一に志賀晒とも名づく。口碑によれば往昔弘法大師の能登に巡錫するや、本郡上野村に宿舍を求めしが、之に對して謝意を表せんが爲め、舍主を伴ひて海岸の一井に到り、その水の白布を晒すに適することを教へたるに起るといへり。蓋し良質の水あるときは之を大師の法力に歸し、清水を得ざる地に在りては大師を尊敬せざりし惡報に因ると爲すこと、この附近皆然らざるはなく、恐らくは石動山天平寺の僧徒が宣傳に基づくものゝ如し。されば王朝初期に於いて、夙くこの産物ありとは信じ得べからず。但だ安部屋が往時稍船舶の輻輳したる小澳にして、他國に來往する者隨ひて多かりしが故に、何れの地よりか枲(カラムシ)を應用して紡織することを學び、遂に之を輸出販賣するに至りたるものにして、その濫觴は藩政以後に在りとするを正しとすべし。享保の頃安部屋の人に金平といふ者あり、川尻の人與四兵衞の妻をして亦枲を原料とする生布を織らしめ、かの上野の清水に晒して發售す。これより安部屋布の名漸く著るといふ。次いで金平の子五平は、同地の人小酒屋半左衞門と謀り、その船便によりて出羽最上より苧を購ひて麻布を製織するに及び、品質大に佳良となり、その産地は廣く志賀郷諸村に亙りて高濱を市場となし、販路遠く三都・加賀・越後・出羽・陸奧に及び、天保十四年の輸出三萬五千三百反を算せりといふ。明治の後麻布の需要一般に減少し、安部屋布も亦衰微せり。 本節記する所は、製紙・製筵・刻煙草・製茶・製鹽の各業に亙る。