加賀に於ける製紙業は、河北郡二俣を以て最も著名なりとせり。その濫觴と沿革とは、之を文獻に徴する能はずといへども、口碑には、本願寺蓮如の北陸に巡錫して二俣に來りしとき、之が製法を授けたるより起るとし、或は當時既にこの業を營みたりしが、蓮如の指導によりて益巧妙となりたるなりともいへり。蓋し二俣が、蓮如の屢駐杖せし所なるを以て、一向宗門徒がその地の名産と蓮如との間に何等かの因縁あるが如く考へたるものにして、このこと或は事實なるべく、或は事實ならざるべし。 加賀藩産物番附金澤市大友佐一氏藏 加賀藩産物番附 前田氏の時に及び、文祿元年利家は初めて料紙の納入を二俣村中特定の製紙業者に命じ、紙肝煎及び紙組合頭の職を置き、役料として山林を與へ、當職の工人を支配せしめたり。これより後その制連綿として變ずることなく、時に同村の工人にして民間賣買の紙製造にのみ從事する者、又は同郡田ノ島村の工人等が、御料紙納入の權利を得んことを請願したることありたりといへども、決して許容せられざりき。而して二俣の御料紙製造者の數は、時代によりて増減ありといへども、初は十五名を算し、後には十名となりたりといひ、藩は之に對して特別の保護を與へ、紙附用の張板を供給し、屢貸銀・貸米を行ひてその生活を保證せり。料紙の種類は、杉原紙・奉書紙・大高檀紙・上包紙・中折・元結紙・鼻紙等に亙り、利家時代に指定せられたる形式に依るものは包裝に黒印を施し、利常時代に命ぜられたる形式のものは朱印を捺して之を區別せり。御料紙製造者以外、民間の商品にのみ從事するものは、二俣村に於いて約百名を有し、田ノ島村等にも亦若干を見、之が仲買業を營む商人は、彼等村民の金澤に入るべき通路たる小立野に店舖を設けたりき。