加賀藩の領内には又能美郡に相瀧紙の産あり。初め相瀧村に製したるを以てこの名ありしが、同村には製紙に適當なる良質の水なく、隣村神子清水にこれを有せしを以て、工人漸くその地に轉ずるに至り、而も製品の名稱は尚相瀧紙を以て呼べり。相瀧紙は純良の楮を原料とし、強靱にして裂け難きを以て包裝に適し、その數枚を合せたるものは、專ら帳簿の甲紙として用ひられたり。この他能美郡中島、石川郡内尾・辰巳・市原、河北郡田上・銚子口、羽咋郡走入・所司原・神子原等各之を産せり。 大聖寺藩に於いては、藩主前田利明の時延寶四年江沼郡中田村の農五郎兵衞を河北郡二俣に遣はし、製紙の法を傳習せしめ、中田・上原・長谷田・塚谷の諸村民に教へたりき。この地山中川の沿岸に在るを以て山中谷といはれしが、是に至りて世に紙屋谷と稱せらる。爾後歴世の藩主その發展に注意して保護の法を設け、且つ之を藩外に販賣することを嚴禁せり。蓋し自領の供給を豐ならしむると共に、價格の騰貴を防遏せんが爲なりしなるべし。因にいふ、前に掲げたる二俣村の御料紙由緒覺帳には、五郎兵衞が二俣に至りたるを正保三年なりとすれども、大聖寺藩の記録は前記の如し。後説恐らくは是なるべし。 山中谷紙漉の初りは、延寶四年に中田村次郎兵衞忰五郎兵衞、すき習ひに二股村に、足輕小頭栗村茂右衞門といふ者を添て被遣、是より追々廣まる。 〔秘要雜集〕 ○ 紙品類名目 御前延錢手形紙御用紙師迄製 過書紙相瀧新大形半切大形半切小形半切 並延中中折下中折小中折廣蓮紙 中連紙端不押已上御直段定有 帳紙傘紙合羽紙茶紙鳥子紙雁皮入 塵紙已上相對直段 〔江沼志稿〕