藺莚即ち呉蓙の製造は夙く能美郡に於いて著れたりき。口碑によれば、吉竹村に釜屋清右衞門といふものありて、大野村内より天然藺草を發見し、之を移植増養して莚を製したるに起るといへども、その事實なりや否やは知るべからず。或は天然藺草の發見を以て寛和年中に係くるものあるも、これ亦本郡に通有する華山法皇巡錫の傳説より附會せるものなるべし。されば吾人の知り得る所は、單に早期の藺草栽培地が八幡・若杉・沖・打越・不動島等の諸村にして、之によりて製織せられたる呉蓙は、五ヶ表の名を以て呼ばれ、且つ初め機具の不完全なりしが爲に精良の筵を得ること能はず、僅かに片目若しくは五經等の幅狹きものを製したりといふに止る。然るに前田利長の慶長六年に至りては、夫役に代ふるに呉蓙の上納を以てしたりといへば、技術も亦大に進歩したりしなるべく、下りて寛永の頃より利常の産業奬勵に伴ひ、機其の改良に力を致しゝかば、漸く勞力少くして美觀と良質とを兼ね備ふるに至れり。爾後藩は常に表(オモテ)檢役を置き、一面には粗製濫造の弊を戒め、一面には産額の増進を計りしに、業勢年を追ひて益盛大に赴き、附近各村皆之に從事して以て藩末に及べり。 當三ヶ村爲失役、從慶長六年以疊之表納來之旨、先御證文披見畢。於向後彌可爲其分。然者四百帳之事、京間之中繼を以可上之。若無沙汰之輩於有之者可爲曲言。猶石野讃岐守可申付者也。 慶長十七年十二月二十五日在判(利常) 沖村・不動島村・打越村きもいり百姓中 〔能美郡誌〕 ○ 當二ヶ村爲夫役、從慶長六年以疊之表納來之旨、先御證文披見畢。於向後彌可爲其分。三百帳之事、京間之中繼を以可上之。若無沙汰輩於有之者可爲曲言。猶山崎閑齋可申付者也。 慶長十七年十二月二十五日在判(利常) 若杉村・八幡村きもいり百姓中 〔能美郡誌〕