煙草の耕作は、石川郡鶴來附近・同郡松任附近・能美郡河合附近等を以て最とせり。鶴來附近は手取川沿岸の山地にして、河合はその上流溪間に在り。是等の地平田狹少にして、その産する穀菽は僅かに自家の食料に供し得るに過ぎず。而して山畑の作物中最も土地と氣候とに適應し、且つ利潤の豐かなるものは煙草たりしが故に、當初各自の嗜好を滿たすを目的として播種せるものも、漸くその量を加へて販賣の用に宛て、以て日常生活の必需品を購入するの資銀を得たりしものゝ如し。石川郡吉野は河合よりも更に上流の地なるが、その煙草の産に名ありしこと、鳥翠臺北莖の著せる北國巡杖記に、『又吉野といへるは、たばこを製して世に商産とす。予も一とせこゝにあそびて、吉野の春に増るたばこの秋を、おなじ名の花とたばこを競ぶれば薫りよしのゝ是は名葉。』といへるにて知るべし。松任附近に至りては固より平野の中にあるが故に、上記の如き理由を見ずといへども、煙草が上下一般の嗜好となるに及び、位置の鶴來に近き關係上亦之を模倣したりしなり。 當時の名葉には鶴來に舞留ありて、辛味を帶ぶといへども氣品の高尚なるを以て賞せられ、松任には薄紅葉ありて、温和なる風味を有せり。河合に至りては辛辣殆ど堪ふべからず、深く喫煙に中毒せしものゝ愛する所たり。その他、二十粉ありて、上品ならずといへども價格低廉なるを以て最も多く常用に供せられき。 煙草の販賣は夙く慶長中より行はれしと見え、同十六年六月領内にて之を取扱ふものを嚴科に處すとの法令あり。降りて寛永八年十二月、明年六月以降刻煙草の商賣を停止すとせるが、特に葉煙草商賣の儀は穿鑿に及ばずと規定したるは、喫煙の弊害を認めたる結果にあらずして、之を細切精製せるものを下民一般に費消せしむるは奢侈に屬すと思考せられ、自家の手刻によりて嗜好を滿足せしめんと企てたるものゝ如し。而してこの法令が何れの時に至るまで効力を有し、何れの時より弛緩せしかを詳かにせずといへども、その後依然として煙草屋と稱するものは、葉煙草屋にあらずして刻煙草屋たるの實状を呈し、一に之を切粉屋ともいへり。煙草を細刻する方法は尚熟練なる職工によりて手刻せらるゝに止り、一日の産額六斤以上に及ぶ能はざりしが、藩末嘉永の頃より螺旋切(ゼンマイキリ)の法を初め、工程急に増進するを見たり。 御分國中、たば粉かたく被成御停止畢。若みだりに取扱候者於有之者、可被處罪科旨被仰出者也。 慶長十六年六月朔日 〔慶長以來定書〕 ○ 定 一、御分國において、刻煙草商賣、來六月朔日以後被成御停止候。自然猥に刻たばこ商賣仕方有之付ては見合次第、其もの手前に有之たばこ、有之まゝ取可申候事。 一、彼もの宿主相改、爲過錢銀子一枚宛可召置事。 一、葉たばこ商賣之儀者不及穿鑿事。 右條々急度可相改候。然者相背御法度之者手前より取申候たばこ並過鈍之儀は、相改候ものに可被下旨被仰出候。向後若猥之儀有之ば、御横目之者共可爲越度者也。 寛永八年十二月十六日本多安房守 横山山城守 御歩横目 御小人頭 〔慶長以來定書〕