能美郡の産は嘉永に至りて益多きを加へ、既に輸入を要せざるに至りしといへども、その製法尚舊套を墨守し、專ら日陰乾のみなりしを以て、宇治製玉露等の良品は尚毎年約一千斤を購はざるを得ざりき。時に近江甲賀郡朝宮村の製茶工に磯五郎といふ者あり。初め大聖寺に在りしが、嘉永五年串茶屋村駒榮九右衞門の家に來り、次いで須天村米谷氏の女壻となる。磯五郎信樂風の製茶を能くしたりしが、文久元年その法を一般當業者に教授せんと欲し、上江村九郎平の家に工場を開き、後更に小松町大幡佐平の家に移りて指導誘掖せり。是に於いて郡内製茶の面目大に改り、文久二年には近江土山の茶商岩田助九郎が來りて長保屋八世理右衞門の製茶を購入するありて、輸出入の形勢逆轉するに至れり。既にして兵庫の開港せらるゝや、理右衞門は自家の製茶輸出を試みたるも、その製尚精しからずして賣價貴からざりしかば、近江甲賀郡郷瀬村の増山太郎右衞門に囑し、職工清兵衞及び龜吉を聘し、自宅・大文字町及び八日市町の三所に爐を築き、普く郡内より生葉を買收して宇治風の茶を製し、安宅港より敦賀に陸揚して兵庫に運送し、大に加賀茶の名聲を發揮することを得たり。