大聖寺藩の製茶は、第二世藩主前田利明の時、老臣神谷内膳に命じて茶實を山城より購入せしめ、江沼郡百三十四村の草高に比例して之を分配し、荒地を開墾して播種せしめたるに起る。既にして藩の奬勵功を奏し、漸く製茶を得るに至りたるを以て、大聖寺・月津等に問屋を設けて販賣の路を開きたりき。然るに天保中凶歉荐に起り、茶の賣行從ひて減少したりしかば、農昆の茶樹を伐採するもの多く、一時甚だしく衰微せり。その後弘化元年宇治の茶師吉平初めて大聖寺に來り、宇治風の焙爐製法を寺井屋長右衞門に傳へしかば、長右衞門は藩士東方宇左衞門と謀り、此の製法を傳播せしめんと欲し大に斡旋したりといへども、未だ普く行はるゝに至らざりき。吉平は世に宇治吉として傳へらるゝ者なり。嘉永二年近江の茶師磯五郎亦來り、その製法を宇左衞門の子東方眞平に授く。これを信樂流と稱し、藩士西田某・奧野某・杉山某も同じくその法を習へり。同四年打越村勝光寺の住僧、茶師吉平の越中に在るを聞きて之を聘し、藩士市橋某・宮永某等數人と共に玉露園の培養・抹茶製造法等を學ぶ。是に於いて字治流・信樂流並びに競ひ起り、茶業駸々として進歩せり。安政六年大聖寺町の茶商矢田屋清三郎・大和屋宗三郎は、丹波の職工清次郎の勸告に從ひ、矢田村に製造場を開き、製品を福井藩の産物所に託して長崎港の貿易に供す。清次郎は後に越後に移る。元治元年福井の商人片屋市太郎は、紅茶を注文すると同時に、自ら職工を伴ひ來りてその製法を教へ、亦同藩の産物所を經て長崎に輸出せり。明治元年大聖寺藩の産物所は、大和屋宗三郎を兵庫に派して商況を視察せしめ、藩費を貸與して貿易茶の製造を奬勵し、又東方眞平の主唱により、原野を下附して之を開拓せしめ茶を播種せり。此の年藩士後藤與元藩の許可を得、自費を以て北陸街道の兩側に茶樹を植う。この施設は廢藩と共に管理の法を失ひ、爲に廢滅せりといへども、郡内の製茶は置縣の後益盛なるに至れり。