加賀藩に於いて金銀貨を製造したるは、夙く前田利家の時に始る。こは天正中領内寶達山に於いて金銀を産出したるが故に、利家は豐臣秀吉の爲す所に倣ひ、之を以て貨幣を造らしめんと欲し、秀吉に請ひてその事務に熟練せる後藤用助を得、別に矢田主計を相司たらしめ、金澤に於いて發行したるなりといはる。然りといへども老臣奧村氏の家譜を案ずるに、天正十二年九月同家の祖永福が、末森城を防守して功ありし時、利家之を賞して種々の物を與へしが、その中に黄金七枚ありて、毎錠梅鉢の紋を刻したりと記せらるゝが故に、利家の貨幣製造は、必ずしも寶達山の採掘を待ちて之を行ひしにあらざるが如し。何となれば、寶達金坑の開けたるも、亦同じく天正十二年にあるが故に、永福に賜ひたる梅鉢判金は、到底その産金により造られたるものなりとは認め得ざるを以てなり。かくて利家以後、利長及び利常の世にも亦種々の金銀貨を製造したりしが、五世綱記の寛文七年に至り、藩の製造したる貨幣の通用を禁じ、漸次幕府のものと交換すべき命を下したりき。凡そこの間に於ける貨幣製造の如何に盛なりしかは、近藤守重の金銀圖譜に擧げたる各藩貨幣の總數百三十五にして、その中二十二種が加賀藩のものなるを以て知るべし。又森田平次の著はせる三州寶貨録には、加賀藩の金銀貨幣なりと推定し得べきものを併せて約四十八種を出し、而して大藏省發行の大日本貨幣史に載する所は、三州寶貨録所載のものゝ外、大藏省その他に保存せられたる現品をも加へたるが故に、更にその數を増せり。今これ等諸書に據り、最も確實なりと思はるゝ加賀藩金銀貨幣約三十八種に就いて、簡單なる讀明を試むること左の如し。