以上の金銀貨は、いづれも加賀藩にて製造せられたるものなり。而して是等の金銀貨を製造せる所を吹座といひ、秤量發行及び鑑定を掌る所を銀座と稱す。吹座と銀座とは、舊と同一主任によりて兼管せられたるが如く、前田利家の時後藤用助と矢田主計とを擢用したるに起る。寛文年中の文書に金屋用助とあるも、後藤用助に同じ。用助・主計二人が何れの年に於いて藩に仕へたりしかは、今詳かにする能はずといへども、文祿二年三月附利家の親書に能登銀座のこと見えたれば、金澤の銀座は是より先既に存在せることを推定せざるべからず。この銀座のありし所を金屋町といひしが、寛永十二年五月の災後、後に下材木町といへる地に移り、次いで淺野川の北にある今の金屋町に轉じたりといはる。本來の金屋町は、金澤城の出丸となり、金谷(カナヤ)殿を建築したる地とす。銀座たるものゝ給料が判金二枚なりしことは、慶長二十年卯月附金澤町の定書に、『天秤役判金二枚宛、如前々出可申事。』といへるを見るべし。天秤役とは、銀座が專ら天秤を使用したるを以て、一に之を天秤職とも天秤屋とも天秤座ともいひ、之に對する給料を城下の町人に課税として出さしめたるなり。 金澤の外、封内各地にも亦銀座を設置して、地方に通用する貨幣の眞贋を鑑定せしめ、他國の金銀引替を爲し、贋造貨幣の防止に任ぜしむ。加賀に在りては小松、能登にありては七尾・宇出津、越中にありては今石動・魚津に置きしもの即ち是なり。利長の守山に在りし時は、その地にも亦之を置けり。是等皆その設置の年月を詳かにせず。 態申遣候。仍年々判を仕上金之事、沙汰之限り惡く候而、行末にて一切とらず候間、成其意、向後念を入候而可判遣候。以來惡候はゞ成敗候間、爲屆申聞候也。 文祿二年三月日利家印 能登銀座後藤五郎左衞門 〔三州寳貨録〕 ○ 能美郡中天秤職之事申付候條、金銀ともに如前々全可裁判者也。 慶長五年十一月五日利長在判 小松大文字屋源兵衞方ヘ 〔三州寳貨録〕