上記の如く藩初に於いて既に金銀貨ありしといへども、その數固より多からず。且つ小額の支拂に當つべきにあらざるが故に、多く米を以て物品を購入したること、之を左の文書によりて知るべし。文中に京判といへるは京升のことにて、その一升の酒價を米にて定めたるなり。湯淺祗庸の手記に、金澤石浦町に紙屋九右衞門と稱する老舖ありしが、その家に往昔錢貨なかりし頃、酒代の米を請取る爲に用ひたりとて、柄の付きたる小升を寛政末年まで所藏せりといへるも、亦傍證とすべし。 定 一、新酒の事、九月より二月まで、上々酒京判一升に付て、八木(ハチボク)一升五合宛たるべき事。 一、古酒は、三月より八月まで、上々酒京判一升に付て、八木二升宛たるべき事。 右自今以後、商賣可爲此分。若此上酒惡敷樣子有之ば、酒屋ども可爲曲言旨被仰出者也。 慶長九年八月朔日 〔慶長以來御定書〕 慶長九年閏八月七日前田利長令を商賣に下し、賣買には、主として知知見銀を用ひしめ、若し灰吹銀を用ふる時は、時價を以て秤量換算して通用せしめたりき。こゝにいふ知知見銀の制は明かならず。同十六年利長の養老領たる越中新川郡龜谷山より銀を産出せしかば、利長は之を以て花降銀を製せしめ、從來の判金と共に通用を命ぜり。この花降銀は前に掲げたる縱三寸五分、幅三寸、厚七厘、重量四十三匁のものにして、表面に花降十兩の文字を刻す。花降銀とは銀の品質最良なるものゝ名なりと言はる。