花降銀發行の後、幾くもなく後藤用助・矢田主計の二人は銀位を劣等ならしめたるを以て、共に三年間の蟄居を命ぜられ、銀座・吹座の職務は、後藤才次郎・金屋彦四郎二人をして之を掌らしめき。用助と主計との刑期滿つるや、藩は更に過怠として犀川・淺野川兩大橋の修繕を命じたりしが、後用助は復活して才次郎と共に銀座となりしものゝ如く、梅鉢小判中の或ものには、この二人の刻印を施したるものありと。而して銀座の創置せられしよりこゝに至るまで、吹座は常に銀座の兼ぬる所たりし如くなるが、元和五年に至りて淺野屋次郎兵衞を以て銀座專務とし、後藤才次郎をして吹座たらしめ、六年更に金屋彦四郎を銀座とし、後藤次右衞門を吹座とせしかば、初めて兩銀座・兩吹座あることゝなる。鑄造の事務を鞅掌する吹屋の地位が、發行鑑識の任に當る銀座の附屬たりしことは、常に同一なり。後寛永十年四月十七日の法令に吹座四ヶ所と記され、次いで明暦元年三月十日銀座を三座とせり。これ淺野屋次郎兵衞の外、承應三年八月金屋彦四郎をして錢座たらしめしも尚銀座を兼務せしめ、別に越前屋孫兵衞に一銀座を組織せしめたるが爲にして、銀座三ヶ所といへるも先の吹座四ヶ所といへるも、共に銀座と吹座とを兼ねたること、元和五年以前の制の如くなりしと思はる。然るに寛文七年加賀藩は貨幣鑄造を廢したるを以て、吹座は廢せられたりしが、後元祿十六年二月銀座を二座となし、享保四年二月十八日三座となし、享保六年十二月晦日兩座に復して藩末に及べり。 前に言へる淺野屋次郎兵衞は、同家第三世にして法號を宗古といひしものとし、金屋彦四郎は第四世吉惠にして、後藤才次郎は初代吉定なり。次郎兵衞等の銀座たりし元和・寛永の頃は、領内諸鑛山に於ける金銀の産出最も多額なる時に當りしのみならず、藩外よりも亦山出しの金銀を齎し來るものありしを以て、原料の豐富なりしこと前後にその比を見ず。而して兩銀座はその一部を花降・竹流・色紙・短册等の吹貫銀に製したる後、次郎兵衞又は彦四郎の極印を施し、之を藩の倉庫に貯藏せり。こは即ち軍用金に當つるものにして、城内東丸なる獅子土藏に收めらる。この倉庫は大獅子・小獅子と稱する三棟あり。各扉に獅子の彫刻あるを以て名づく。その職員に獅子土藏金銀支配及び大銀(オホガネ)奉行あり。後寶暦九年の火災に罹り、小獅子土藏一を殘す。之より小獅子土藏を大銀土藏といひ、奉行を亦大銀奉行といひしが如し。青地禮幹の著はせる浚新秘策中寛保三年十月の條に、大槻朝元の奸惡を記して、彼が獅子の土藏を開きて、利常の時その包裝に、他國扶持方用銀と書して貯へたる朱封銀の大半を、大坂に輸送したることを摘發し、且つこの朱封銀の精良なること、現今通用のものに一倍する好銀なりといへり。寛保の頃にありては、銀質尚甚だしく劣惡ならず。然るに藩の貯藏銀が更に一倍の好銀なりと言ふを以て見れば、いかにこれ等吹貫の優良なるものなりしかを察し得べし。貯藏銀以外は之を通用銀に當てらる。この通用銀も亦次郎兵衞若しくは彦四郎の極印を施したるものにして、寛永元年の勘定書に今極の御本銀に吹くといふもの即ち是なり。今極とは今極印の義にして舊來の極印に對したる名目なり。