寛永七年加賀藩に於いて灰吹(ハイフキ)銀を製せしめ、從來封内に通用したる極印銀に交へて之を通用せしめき。灰吹銀は俗にこまがねと稱し、又きりかねともいへり。この銀は、錢貨を用ふべき少額の取引に用ひたるものにして、當時藩内に錢貨甚しく缺乏したるを以て、之に代用したりしなり。後世玉銀を一に灰吹銀と稱したることあれども、寛永の灰吹銀は之と異にして、地銀を薄く鍛造し、その價に隨ひ切斷して交附せしなり。きりかねの名之より起り、而してこまがねといふも亦細銀の意に外ならず。但し灰吹銀を使用することは、この寛永七年を以て嚆矢とするにあらざるは、前に言へる慶長九年閏八月七日附の法令に見えたるを以て知るべく、又三壺記にも、元和年中前田利常の夫人天徳院の金澤に在りし時、犀川口鬼川の岸に歌舞伎座ありしが、上下男女の差別なく、札錢灰吹のこまがね三分宛にして、觀客頗る雜沓せりといへるをも傍證とすべし。灰吹銀の品質は、之を極印銀に比するときは劣惡なりしが如く、後承應三年寛永通寶の行はるゝに及びて、その使用を停止せり。但し灰吹銀使用の時代に在りても、尚前代に引續きて米穀をも混用したりしこと、藤田安勝の微妙公夜話に、『承應年中之始迄は御領國中錢遣に而無之、白銀を細に切置つかひ申候。又は米を小升に而斗候而、賣物等買整、日用を達申候。』といへるが如くなりしなり。