次いで寛永十五年更に菊花の極印ある銀貨の製造を命じて新たに朱染紙封となし、九月五日以降從來通用の新極印銀及び取込銀子を禁止せり。前の今極印朱染紙封のものは、品質素より良好なりしが故に、この時既にその姿を失ひしなるべく、新銀貨は品質頗る劣等なるのみならず、灰吹のこまがねをさへ多く混じて封じたりき。元來朱染紙封銀は、略して朱封銀とも朱銀ともいひ、伊豆修禪寺の抄紙と同樣のものにて包裝せるものなるが、蓼木の皮を煎じて染め、赭褐色を帶びたるが故に、誤りて朱染紙と書したるなり。新銀貨の包裝の表面には朱封銀百目と書し、裏面に朱封銀と記したる角印を押捺す。而してその封緎せざる裸銀は、單に極印銀といひて、封緎せる朱封銀と區別せり。上納銀は凡べて封じたるを用ひたるを以て、萬治の頃は、金澤の銀座より小松・七尾・宇出津・今石動・魚津の遠所銀座に、手代を派して封を施さしめ、富山の銀座には、國印・座印及び極印をも備へしめたりといへり。かくて領内の通貨は一旦凡べて菊極印の朱封銀のみとなりしが、藩内外の交通に伴ひて、取込銀の輸入せらるゝこと常に止まざりしを以て、尚之が混用を許すの止むを得ざりしこと、承應三年九月十日の法令に、『銀子之儀は、今迄の如く、極印銀・取込銀共に取遣可仕事。』とあるによりて知るべし。 覺 近年於御分國中遣來候、新極印銀子並他國より相越候取込銀子遣候儀、堅被成御停止訖。然者來月五日以後、朱染紙封之銀子を以商賣可仕候。但跡々新極印之銀子にて、直段申合候分者、最前如御定、朱封之銀子歩入指引致算用、受取渡可仕候。若御法度を於相背輩者、可被處曲事旨所被仰出也。仍如件。 寛永十五年八月廿八日横山山城守在判 本多安房守在判 〔三州寶貨録〕