かく封内通用の金銀貨は、前田利家以來常に銀座の發行する所なりしが、綱紀の寛文七年に至り、幕府鑄造の丁銀・豆板銀を通用し、朱封銀を停止すべき令を發せり。是に於いて京都の銀座は、丁銀・豆板銀を輸入して朱封銀と交換せしが、その相場は朱封銀百目に對して丁銀又は豆板銀百二匁の支拂を爲せり。この時輪入せられたる丁銀及び豆板銀は、慶長六年に製造せられたるものにして、引換は九年六月より初り、十年十二月に終り、十一年正月全く朱封銀を禁止せり。是に至りて封内貨幣鑄造の事長く止む。是より先、小將組の士にして小拂奉行たりし江尾才記は、取扱に不熟練の丁銀・豆板銀を以て事務を執るに堪へずと稱し、請ひてその職を辭したりしかば、九年十二月遂に追放に處せられたりき。 寛文七年、加越能三州之貴賤仕用處之銀子、菊之紋のコクイ(極印)銀自今停止して、江戸並に豆板銀を可用旨、從公儀被仰渡、コクイ銀を上げて豆板銀に替仕候也。 〔御年表〕 ○ 向後御分國中、丁銀遣被仰付、先當分者朱封銀・丁銀兩樣共に取遣可仕候。朱封銀遣御停止之儀者、追而可被仰渡候間、此旨御組中可被申渡候。恐々謹言。 四月十日(寛文七年)横山左衞門奧村因幡長九郎左衞門 本多安房前田對馬 〔三州寶貨録〕 ○ 從來月朔日御納戸より出申小拂銀、丁銀に被仰付候。就夫來月よりは、諸方より御納戸に上候銀子之分者、丁銀を以可被納候。御分國中、下に而之取遣候分、當年來年中朱封銀・丁銀兩樣取遣之筈に候。 一、六月以前之借銀・買懸等朱封銀之分、同月朔日以後丁銀に而於相濟者、二歩之致歩入に沙汰可仕候。六月朔日以後之儀者、丁銀遣取(ヤリトリ)歩入有之間敷候。 五月廿九日(寛文七年)奧村因幡横山左衞門長九郎左衞門 本多安房前田對馬 〔三州寶貨録〕