上記の如く、封内の通貨は慶長の頃より多く銀貨を用ひ、次いで幕府の發行する丁銀・豆板銀を使用したるが故に、物價も亦銀貨を以て稱せられ、寛文九年に幕府の小判・一歩判の金貨混用を許したる後に於いても、尚諸色の相場は專ら銀にて定めたりき。この點に就きては、他藩の金貨を標準とするものあると全く趣を異にせり。 錢貨に關しては、慶長十三年幕府より在來の永樂錢の通用を停止し、金銀貨幣以外は鐚錢(ビタセン)を通用すべきことを公布したるが、鐚錢とは青銅製なるものにあらずして鐵製なるものなり。次いで、寛永十年四月には加賀藩より、幕府の法に從ひ、鐚錢の中甚だしき惡貨に非ざる限りは、之を選擇して通用を妨ぐべからざることを封内に諭したることあり。同年六月又小賣の酒肴・青物・菓物・炭薪の賣買には錢貨を用ふべく、その他の商業にも、價格銀一匁以下なる物には錢貨を用ふべきことを令せり。 覺 一、一駄荷四十貫目、乘かけ荷二十二貫目事。 一、駄ちん、金澤より野々市迄、一駄に付二十四文、津幡迄五十二文、宮腰迄二十四文の事。 一、宿賃は、主人八文、下人四文、馬八文の事。 一、大かけ錢一、かたなし一、ころ錢一、われ錢一、新錢一、なまり錢此六錢の外えらぶべからざる事。 右條々於相背者、月行事儀可爲曲事。肝煎者爲過錢鳥目二貫文、並馬かた中より家一間に二貫文宛可出之。則申あらはす者に可被下旨被仰出候所也。仍如件。 寛永十年四月日稻葉左近在制 中村刑部在判 〔三州寳貨録〕 ○ 覺 (前略) 一、小賣之酒肴並青物・菓物・炭薪等、來七月十日以後銀子にて商賣仕事有之間敷候。何も可爲錢遣事。 一、諸商賣物不寄何色、銀子一匁より内之物は可爲錢遣事。但一匁より上之賣物たりといふ共、相對次第錢遣に可仕事。 右之分無相違樣に、當町中へ堅可被申付者也。 寛永十年六月六日横山山城守 本多安房守 〔御定書〕